「どう書くか」よりも先に、「何を書くか」を考えよう。(ヒトリゴト67)
2009年 05月 11日
いま僕が仕事をしている著者は、ほとんどが企業の経営者で、自分で書くのは稀だ。
文章を書くのが苦手だとか、その時間がもったいないとかの理由で、
取材をもとにプロのライターが構成・執筆をして、一冊の本を作ることが多い。
(場合によっては、その仕事のすべて、あるいは一部を編集者が引き受けることもある)
そういう制作スタイルだから、当然、ライターの力量が本の出来に影響する。
この事実は、ビジネス書の著者の間ではだいぶ浸透しているようで、
冒頭のようなお願いをしてくるケースが目立ってきた。
もちろん、こちらとしても、腕が立つライターに、
取材や執筆をお願いしたいのは一緒である。
同じ一冊の本を作るなら、下手なライターより、
優秀なライターに書いてもらうほうがいいに決まっている。
けれど、仮にそういうライターと仕事をしたからといって、
その本が必ず売れるとは限らない。
なぜなら、本のコンテンツは、けっきょく著者以上のものにはならないからだ。
ライター(あるいは編集者)は、
まとまりに欠ける著者の話を、わかりやすく整理することはできる。
よくあるノウハウに独自のネーミングを与え、新しさを演出することもできる。
読みやすい文章を書くことで、読者のストレスを軽減することだってできるだろう。
しかし、それらはあくまで「調理」の方法に過ぎない。
本の「材料」を用意するのは、著者の役目だ。
ビジネス書であれば、著者がビジネスにかかわる分野で、
どんなことを行ない、どう考えてきたかが材料である。
それが何の変哲もない材料だとしたら、
調理法の工夫だけで、絶品の料理(本)を作るのは難しい。
「どう書くか」以前に「何を書くか」。
書ける(書いてもらう)だけの材料が、自分にあるかどうか。
それを吟味もしない内から、
「有名シェフ」の予約のことだけで頭がいっぱいな著者が多いようである。
こんなことを書いたのは、別に最近の著者に文句を言いたいからではない。
こういう「当たり前のこと」を忘れていた自分を戒める意味で、
いまパソコンに向かっている。
一部の人には言っていたことだけど、
この半年間、「書く」ことを学ぶ学校に通っていた。
(その目的については、長くなるので別の機会に譲る)
正直、通う前は、自分の「文章力」には自信を持っていた。
その学校の生徒には、僕のような現役の編集者やライターはほとんどいない。
出版社でも編集部以外の部署の人間、あるいは文章執筆とは無縁な会社に勤める人、
学生やフリーターなど、明らかに「書く」ことには不慣れな人が多いように見えた。
嫌な言い方だけど、自分の文章は学校の中では「うまい部類」に位置するはずだと思っていた。
けれど、授業が始まってから驚いた。
学校では、講師が決めたテーマをもとに文章を書いたり、取材をする課題が出る。
後日、生徒が提出した課題をもとに授業が進められるのだが、
自分よりもうまい文章を書く人はざらにいた。
いや、もっと言ってしまえば、僕が普段書いているような文章は、
たとえ趣味でも、書くことにある程度時間を費やしてきた人なら、
誰でも書けるのだということを思い知らされた。
僕が誇ってきた「調理」の腕前は、しょせんその程度だったのだ。
書くことへの自信を失うというより、
書くということを甘く見ていた自分に、嫌気が差した。
「どう書くか」を競っても、他の生徒と大差はない。
ならば、「何を書くか」、じっくり考えるしかない。
思えば、それは講師として来ていた業界の大先輩の方々が、
口を酸っぱくして言っていたことと同じである。
それを意識することで、卒業時には入学したときよりも、
少しはましな文章が書けるようになったと思う。
誤解してほしくないのだけど、
「どう書くか」ということも、もちろん大事だ。
しかし、それはあくまで、「何を書くか」のあとに、
あるいは同時に考える問題ではなかろうか。
自分が調理するにしても、人に調理させるにしても、
まずは最高の材料を探し集めることだ。