「誰でも恋愛できる」のが幻想だとしても、自分を「できない側」に入れる必要はない。(ヒトリゴト35)
2006年 03月 25日
小谷野 人間には遺伝や環境によって形成された、能力の差があります。だから努力したからといって、誰もが東大に入れるわけではないし、マラソン選手になれるわけでもない。これと同じように、いくら努力しても恋愛ができない人はできない。
他人と意志疎通を図るために、言葉をしゃべったり文字を書くことは大抵の人ができます。けれど恋愛にはもう少し高度なテクニックが必要で、「ロミオとジュリエット」にはできても、普通の人にはできないんです。
上記がたとえ真実だとしても(もちろん、それを否定する人もいるだろうけど)、必ずしも自分を「できない側」に入れる必要はないんじゃないかなぁ、と僕は思う。
だって、そう思ってしまったら、まさしく未来永劫、恋愛なんてできないじゃない。
世の中には「恋愛できる人」と「できない人」がいて、何の根拠もないけど自分は「できる人」なんだと思ったほうが、少なくとも恋愛できる可能性は残る。
もちろん、その可能性を信じて、何年、あるいは何十年も「恋愛」に裏切られ続ける人もいるだろう。
その期間があまりにも無益だと感じる人は、はなから「できない側」に身をおいて生きるのが得策なのかもしれない。
でも、自分が本当に「恋愛できる」かどうかなんて、そう簡単にわかるものなんだろうか。
(匿名ブログで信憑性がないという批判を承知で書くけれど)僕自身は、大学に入るまでずっと「恋愛できる人」ではなかった。
見かけは悪いし、性格も悪い。女心もわからない。何より恋愛経験がない。
でも、それでも「できる(だろう、多分)」って根拠もない幻想を抱いてたら、それがいつしか本当になった。
そのために、自分は何の努力をしたというわけではない。
ただ、好きな人に好きだと言えるようになっただけだ。
(逆に、そんなシンプルなことすらできない人間だったのだが)
下らない自分語りをしてしまったけど、当時の僕は、まさしく「幻想を信じたおかげ」で恋愛できたのだと思う。
僕には、他人が恋愛して死んでいこうが、恋愛しないで死んでいこうが関係ない。
恋愛が人生の最大イベントだと言う気もない。
けれど、どうせ一回こっきりの人生なんだから、「恋愛できる」という根拠のない自信を抱いて生きてもいいと思う。
「できない」ことより「できる」ことが多いと信じたほうが、このいろいろと面倒くさい人生が、少しは楽しくなるんじゃない?
信じる者が、必ずしも救われるとは限らない。
でも、信じることをやめた人間には、救いなんてくるわけがない。