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by aru-henshusha

それがあったから、強くなれた。だけど、それはなくてもよかった。(ヒトリゴト54)

遅ればせながら、先日、『オシムの言葉』を読み終えた。

普段、あまりベストセラーを読まない僕がこの本に手を出したのは、次のサイトを見たのがきっかけだ。

『オシムの言葉』|BOOKREVIEW|スタンバイ!
圧巻なのは、著者が、「悲惨な隣人殺しの戦争や艱難辛苦によって、現在のオシム監督が得たものが大きかったのでは?」と質問するシーン。オシム監督は、「確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう」と答える。「そういうものから学べたとするならば、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……」。
この言葉を知って、僕はこの本は、絶対に読まなければいけないと思った。


僕はいままで、人を強くするのは、まさに「艱難辛苦」だと思っていた。
それは、僕自身の経験から導き出された考え方である。

もちろん、僕の経験など、ボスニア紛争で家族と代表チームをバラバラにされたオシムと、とうてい比べられるものではない。

それでも僕は、自身の幼少期から少年期に至るまでの苦労と涙が、僕を強くしてくれたと、ずっと信じていた。


たとえば、物心ついたときから父親がいなくて、母親にもかまってもらえず、親戚の家で一日の大半を過ごしていたことは、僕に何がしかの影響を与えはしただろう。

じっさい、僕はその家で人の顔色を伺うことを覚え、同時に、一人でも強く生きる術を身につけた。
それらの「スキル」は、後年、僕が大事な一歩を踏み出すときに、背中を押してくれたことは疑いない。


けれど、オシムの言葉を知って、僕はこの考えを改める(あるいは修正する)必要性を感じている。

「それ」があったから、僕が(わずかでも)強くなれたことは否定しない。

だけど、「それ」は、なくてもよかった出来事ではないのか?
「それ」がなくても、強くなれるとしたら、そのほうがよいのではないか?


僕は、これからも、ちょっぴりずつでいいから、強くなりたい。
でも、そのために、わざわざ辛く悲しい思いをしたくはない。

人は、艱難辛苦からしか、強くなれないのだろうか?
強さとは、苦しみと悲しみの「化合物」でしかないのだろうか?


たいした根拠はないけれど、僕はそうではないと言いたい。
強さは、ときに、優しさや喜びからも生まれるものだと、僕は思う。

そういう強さを、僕は持ちたい。
そして、強くなるためには、優しさや喜びこそが必要なんだと、僕は言いたい。
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by aru-henshusha | 2007-01-28 23:54 | 不定期なヒトリゴト。