書き尽くされているからこそ、まだまだ書けることがある。
2007年 03月 08日
むかし、上野千鶴子氏の東大での授業に出たことがあるが、その際上野氏は学生に向かって、「勘違いしないでくださいよ、あなたがたが思いつくようなことはもう誰かが考えているに決まっているんです」と言っていたのだが、その通りなのである。(『すばらしき愚民社会』)なるほど、学問の世界では、上のような発言は正しいのかもしれない。
けれど、これが文学の世界になると、すこし違ってくるようだ。
「無銭優雅」の山田詠美さん(YOMIURI ONLINE)
本好きの詠美さんが選んだ古今東西の恋愛小説の一節が挟み込まれているのも新作の醍醐味(だいごみ)だ。堀辰雄『風立ちぬ』から勝目梓『悦楽』まで21作品が二人の波乱含みの恋のスパイスになっている。ちょっと禅問答のようだけど、言わんとすることは何となくわかる気がする。
名作を読み、もう書くことはないと打ちひしがれることはなかったのか、と聞くと
「自分が書きたいことは、先人によって書かれているという畏怖(いふ)を持つことから書くことは始まる」と即答した。「とっくに書かれているかもしれないという制限があるからこそ小説は自由。いかに私にしかない言葉の組み合わせで新しい表現が出来るか、逆に意欲がわいてくるんです」
たとえ、先人と同じようなことを考えついたとしても、そこに自分なりの表現を「上書き」していくのが文学というものではないか。
書き尽くされているから終わりではなく、そこからが、まさにスタートなのだと思う。