ある編集者の気になる人・事・物を記録したブログ。ときおり業界の噂とグチも。


by aru-henshusha

カテゴリ:不定期なヒトリゴト。( 69 )

足るを知る者(中日新聞)
 <求めない-/すると/いまじゅうぶんに持っていると気づく>

 <求めない-/すると/いま持っているものが/いきいきとしてくる>

 <求めない-/すると/それでも案外/生きてゆけると知る>

 書店に立ち寄ったら、平積みされた小さな本が目に留まった。どのページにも、こんな短い句が一つずつ。どれもが「求めない」で始まっている。シンプルで、何でもないような言葉ばかりだが、引き込まれてしまった。

 タイトルも、ずばり『求めない』(小学館)。作者は、詩人の加島(かじま)祥造(しょうぞう)さんだ。

 人間とは、求めてやまない存在である。求める心が大きなエネルギーにもなる。しかし、現代の私たちはあまりにも求めすぎているのではないか。欲望過多の時代と言っていいかもしれない。

 豊かさを際限なく求めた結果、あふれかえったモノとゴミに私たちは窒息しかかっている。成長と進歩への飽くなき欲望は、自然を破壊し、地球を危機に陥れている。

 快適と便利の果てしない追求に、人は逆に振り回されている。度を越した所有欲が引き起こす事件は、絶えることがない。私たちが抱える不安も、さまざまな「過ぎた欲望」と無縁ではあるまい。
(中略)
 今の自分に満足し、受け入れる。それが本当に豊かな人間である。この二千年余り前の言葉を、時代に即して丁寧に翻訳してくれたのだろう。
僕も、出版業界の片隅にいる人間だから、この『求めない』という本が売れに売れていることは知っていた。
うちの会社でも持っている人がいたから、貸してもらってパラパラ読んだりもした。

書かれていることについては、素直に、「なるほどね」と思う。
学生時代に『老子』も読んだし、「足るを知る」ことの大切さだって、少しはわかっているつもりだ。

けれど、明日から早速「求めない」精神で生きてくれといわれたら、僕は困る。
僕には、まだまだ「求めたい」ものがある。


べつに、物質的に満足していないわけではない。

一人暮らしの家は狭いし、冬のコートはもう一着ぐらいあってもいいし、
使っているパソコンの調子は悪いけど、我慢できないレベルではない。


でも、僕は自分自身には満足していない。

一番わかりやすい例は、仕事だろう。

僕は、今の自分が出している以上の「成果」を求めている。
そして「成果」を出せば、それに応じた「待遇」も、きっと求めるだろう。

求めた成果が出なければ僕は落ち込むだろうし、さらに強くそれを求めて汗水たらすはずだ。


はたから見れば、いや、本人だって、そういう生き方はけっこう疲れる。

今現在、会社に迷惑をかけるような仕事ぶりではないし、適当なところで、
自分にも周りにも「求めない」ようになれば、もっと楽ができるに違いない。


だけど、そういう「求めない」生き方は、もう少し後でもできる。

何しろ、「求めない」だもの。
そう思った瞬間から、もう完了。歩み(というより走りか)は、一気にとまる。


僕は自分が編集者として、あるいはモノを作る人間として、
自分がどれだけ向いてるとか、才能があるとかないとか、わからない。

昔はもっと自惚れていたけど、今は本当にわからない。

このまま、求めて、求めて、自分が求めたものとは全然遠い存在だったと気づいて、
いつか愕然とするような気がしないでもない。


でも、そうなったら、そうなったでいい。
そのとき、初めて「求めない」ようにすればいい。


今の僕は、まだまだ、もう少し求めたい。
求める先に何があるのか、見届けたい。

求めるのは欲望であると同時に、好奇心でもある。
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by aru-henshusha | 2007-12-17 01:24 | 不定期なヒトリゴト。
c0016141_4145714.jpg唐突だけど、これから、一編の詩を紹介したい。

とても長くて、正直、引用の限界を超えているとは思うのだけど、
関係者の方は目をつぶっていただけるとありがたい。

紹介するのは、大野勝彦さんという、事故で両手を切断したものの、
いまは二本の義手で絵を描き、詩を綴っている方の作品だ。

なお原典は、今年の夏にサンマーク出版から出された、
はい、わかりました。』に拠っている。


神様からのメッセージ

それでも生きるんじゃ
それだから生きるんじゃ
何だ偉そうに
「格好悪い。ああ人生はおしまいだ」
なんて、一人前の口を叩くな
あのな、お前が手を切って
悲劇の主人公みたいな顔して
ベッドで、うなっていた時なー
家族みんな、誰も一言も
声が出なかったんだぞ
ご飯な、食卓に並べるのは並べるけど、
箸をつける者はだぁれもいなかったんだぞ
これまで一度も、神様に手なんか
合わせたことがない三人の子どもらナ
毎晩、じいさんと一緒に、正座して
神棚に手を合わせたんだぞ
バカが
そんな気持ちも分からんと
「なんも生きる夢がのうなった」
「他の人がバカにする」
そんなこと言うとるんだったら
早よ、死ね
こちらがおことわりじゃ
お前のそんな顔見とうもナイワイ
どっか行って、メソメソと
遺書でも書いて、早よ、死ね
なー体が欠けたんじゃ
それでも生きるんじゃ
それだから生きるんじゃ
考えてみい、お前の両親いくつと思う
腰曲がって、少々ボケて、もう年なんじゃ
一度くらい、こやつが、私の子どもで良かった
「ハイハイ、これは私達の自慢作です」って
人前でいばらしてやらんかい
もう時間がなかぞ
両手を切って、手は宝物だった
持っているうちに、気づけば良かった
それに気づかんと、おしいことをした
それが分かったんだったら
腰の曲がった、親の後ろ姿よー見てみい
親孝行せにゃーと、お前が本気で思ったら
それは、両手を切ったお陰じゃないか……
今度の事故はな
あの老いた二人には、こたえとるわい
親父な、無口な親父な
七キロもやせたんだぞ
「ありがとう」の一言も言うてみい
涙流して喜ぶぞ、それが出来て
初めて人ってもんだ
子供達に、お前これまで何してやった
作りっぱなし、自分の気持ちでドナリッパナシ
思うようにならんと
子育てに失敗した、子育てに失敗した
あたり前じゃ
お前は、子育ての前に
自分づくりに失敗しているじゃなかか
あの三人は、いじらしいじゃないか
病室に入って来る時ニコニコしとったろが
お前は「子達は俺の痛みも分かっとらん」
と俺にグチ、こぼしとった
本当はな、病室の前で、涙を拭いて
「お父さんの前では楽しか話ばっかりするとよ」と、
確認して三人で頭でうなずき合ってから
ドアを開けたんだぞ 学校へ行ってなー
「俺のお父さんは手を切ってもすごいんだぞ。
何でも出来て、人前だって平気なんだぞ」
仲間に自慢しているっていうぞ
その姿思ってみい
先に逝った手が泣いて喜ぶぞ
しゃんとせにゃ
よし、俺が見届けてやろう
お前が死ぬ時な
「よーやった。お父さんすばらしかった。お父さんの子どもで良かった」
子どもが一人でも口走ったら俺の負けじゃ
分かったか
どうせまた、言い訳ばかりしてブツブツ言うんだろうが
かかってこんかい!
歯をくいしばって、度胸を決めて
ぶっつかってこんかい
死んだつもりでやらんかい
もう一遍言うぞ
大切な人の喜ぶことをするのが人生ぞ
大切な人の喜ぶことをするのが人生ぞ

時間がなかぞ………………
時間がなかぞ………………


この詩を読んでどう思うかは、人それぞれだろう。
また、どんなときに、この詩を読むかによっても、感じるところは違うはずだ。

僕がこの詩に出合ったときは、たまたま、この詩を「受け入れる」準備があった。

普段だったら「神様からのメッセージ」なんて詩、死んでも読まないと思うのだけど、
そのときの僕は、ただ素直に文章を追いかけた。


そのとき、僕の心をつかまえたのは、次の言葉だ。


それでも生きるんじゃ
それだから生きるんじゃ



生きていれば、辛いことがある。悲しいこともある。
憤ることがあれば、ままならないこともある。

自分が歩むその先に、光を見たいのに、闇ばかりで何も見えないときがある。


それでも、僕は生きている。

自分の今の境遇・立場を恨むこともあるけれど、
「死ぬか生きるか」と訊かれたら、やっぱり、僕は生きていたい。


生きている限り、小さくても喜びはある。幸せもある。
辛いことと悲しいことの隙間に、つかの間でも楽しい一時がある。

どれも、生きているから感じられる。
死んだら、(多分)何もない。


うまくいかないことだらけの日々の中で、たまにうまくいくときがあって、
たまにだからかもしれないけれど、それがとても嬉しくて。

そういう時間を少しずつでも増やしていけたら、
人生ってやつも、捨てたもんじゃないと思えるかもしれない。


そのためには、生きるしかない。
生きて生きて、ちょっとでも光があるだろう方向に進むしかない。

この先には光がないと断言して、絶望して、立ち止まるより、
無鉄砲でも、もう少し先に進みたい。


誰の人生にも、いつかは、等しく闇だけの世界が来る。

それでも生きる、それだから生きる。


残り時間がどれだけあるか知らないけれど、
どうせ一度の人生ならば、僕は行けるとこまで行こう。
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by aru-henshusha | 2007-11-12 04:19 | 不定期なヒトリゴト。
僕の敬愛する作家、山口瞳さんが書いた文章に、「少年達よ、未来は」というものがある。
少し長くなるけど、その一部をここに紹介したい。
 私が会社に勤めて月給を貰うようになったころ、そのとき私はまだ二十歳だったのですが、私の先生にあたる人と一緒に、ある会場に行くということがありました。
 駅で切符を買い、改札口を通ったときに、電車がプラットフォームにはいってくるのがわかりました。駈(か)けだせば、その電車に乗れるのです。すこし早く歩いたとしても乗れたと思います。周囲のひとたちは、みんな、あわてて駈けてゆきました。
 しかし、先生は、ゆっくりと、いつもの歩調で歩いていました。私たちが階段を登りきってフォームに着いたとき、電車は扉(ドア)がしまって、発車するところでした。駅には、乗客は、先生と私と二人だけが残されたことになります。
 先生は、私の気配や心持を察したようで、こんな意味のことを言いました。
「山口くん。人生というものは短いものだ。あっというまに年月が過ぎ去ってしまう。しかし、同時に、どうしてもあの電車に乗らなければならないほどに短くはないよ。……それに第一、みっともないじゃないか」
(『山口瞳「男性自身」傑作選 中年篇』などに収録)
僕はこの話が昔から、とても好きだった。特に太字で示した「先生(多分、この方を指している)」の言葉は、とても味わい深い言葉だと思ってきた。

でも、僕がこの話の「味」を本当の意味でわかるようになってきたのは、最近のことだろう。
かつての僕は、きっと「あわてて駈けて」いく、乗客のような人間だったはずだから。


自分で言うのもなんだけど、僕はいままでの人生で、あまりレールを外れたことがない。

ストレートで大学に進学し、4年で卒業。就職活動は手こずったが、何とか出版業界にもぐりこみ、途中で会社をかわりはしたものの、一貫して書籍編集のキャリアを積んできた。

自分の意思のみで決まったことではないけれど、その時その時で、「乗るべき電車」に滑り込んできたように思う。


けれど、近頃の僕は、少し違う。

ホームに来た「電車」に無理して駈け込まなくなった。
仕事のことでも、それ以外のことでも、ここ数年で何本かを見送ってきた。

中には、自分の人生において、大きな意味を持つ電車もあったと思う。
人から「切符」の用意までされたときもあった。

でも、乗り込まなかった。正確に言えば、乗り込めなかったときもあっただろう。


次の電車がなかなか来ないとき、あの電車に乗ればよかったのかも、と思うこともある。

だけど、それは意味のない感傷だ。

何より、あのときの僕には、乗らない理由も、乗れない理由も、存在した。
電車が満員だったわけでもなく、誰かに突き飛ばされたわけでもなく、自分の意思で、僕はホームにいた。


「少年」と呼ばれる時期をとっくに過ぎて、自分の残りの人生の短さを思うたびに、僕は「先生」の言葉を思い出す。

人生のダイヤグラムは読めないけど、それでも後何本かの電車は来るだろう。
だったら、自分が乗りたいと思ったときに、乗ればいい。

人生は短い。でも、思ってるほど、それは短くない。

大事なのは、まず「目的地」を決めること。
それが決まるまで、僕は、もう少しホームにいよう。
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by aru-henshusha | 2007-09-18 01:55 | 不定期なヒトリゴト。
ちょっとしんみりするネタを引っ張ってきてしまったのだけれど……

西原理恵子さんと『100万回生きたねこ』
(活字中毒R)
今年の春、西原さんはパートナーであり、子供たちの父親であるジャーナリストの鴨志田穣さんを腎臓がんで亡くした。葬儀のとき、西原さんの友人の医師・高須克弥さんが、こう言ってくれたのだという。
「息子たちを指差して『人間は遺伝子の船。あんなに新しい乗り物を用意しても
らった鴨志田さんは、本当に幸せだった。新しい船に乗り換えたのだから古い船
のことはもう忘れていいんだよ』って。実際、息子はささいなクセが、どんどん
父親に似てきている」

そして、鴨志田さんの生き方は、『100万回~』のラストとも重なる気がするのだという。
「とらねこが”負のスパイラル”を絶って死んでいった、とも読めるんですよね」
アルコール依存症だった鴨志田さん。一度は離婚して家を出たが、施設に入り、克服。亡くなるまでの半年間はもう一度、西原さんと子供たちと共に暮らすことができた。
「家に戻ってきたときは、『子供に渡すことなく自分の代で、アルコール依存症のスパイラルを絶つことができた』ってすごく喜んでいましたね。ちゃんと人として死ねることがうれしいって。鴨志田の親はアルコール依存症だったから。
負のスパイラルについては、ふたりでよく話し合っていた。生い立ちが貧しいっていう自覚がお互いにあって。また貧困家庭を作ってしまうんじゃないか、と私もずっと心配だった。だから、とにかく仕事をしてお金を稼ごう、とずっと思っていた」
この話、僕もよくわかる。

いや、サイバラ・カモちゃんにしてみれば、お前に何がわかるんだよ、と言いたくもなるだろう。
でも、背負った「負」の重みはそうとう違えども、僕もときおり、同じようなことを考える。


僕にとっての「負」は、母子家庭であったこと、そして(むろん、貧困と言うほどではないけれど)
それなりに貧しかったこと。

当時味わった苦しみを、いま思い出すことはほとんどない。

けれど、心のどこかではそれを覚えているし、自分が将来、もし家庭をもったときに、
それらの不幸や苦しみを「うつす」ことになりはしないかと、じつはずっと心配してきた。


僕は、世間から見れば、もう「結婚してもいいころ」の男である。
実際、年々同級生は結婚していくし、人によっては子供だっている。

だけど、いままで結婚に踏み切ることはできなかった。
この女だったら結婚してもいい、と思えた相手でも、
「結婚」の二文字はどうしても口にできなかった。

その背景には、色々な理由・事情があったけど、
いちばん大きかったのは、この「負のスパイラル」だったと思う。

いま仮に家庭をもったとしても、自分は「負のスパイラル」を断ち切れないんじゃないか。
そう思うと、一緒になってくれとは、どうしても言えなかった。


皮肉なことに、僕は年々、あの親父(ひと)に似てきてる。

だらしがないところ、はっきりしないところ、どこか冷たいところ、ときにとても無謀なところ……
親父のダメな部分を、残念ながら、僕はけっこう受け継いでしまったようだ。

だから、怖い。自分が怖い。

たとえ家族をもったとしても、けっきょくは自分のことしか考えなさそうで。
いつかポイッと、その家族を捨ててしまいそうで。


「負のスパイラル」を断ち切るためには、どうしたらいいんだろう。
自分の考えを「正解」という気はないけれど、僕は僕なりに答えを出した。

すなわち、僕自身がまず幸せになること。
自分がいまの自分の人生を肯定できること。過去の「亡霊」を笑い飛ばせること。

そういう状態になれば、こんな僕にも、何らかの余裕ができるんじゃないか。
不幸を他人に「伝染」させる前に、自らの幸せのおすそ分けができるんじゃないか。

いまは、そう思って毎日を生きている。


もちろん、これは多分に僕の考えすぎなのかもしれない。
心配性だとか、被害妄想だと思う人もいるだろう。

でも、一度「負」を味わった人間は、万が一でも、それを他人には味わわせたくないんだよ。
僕みたいな思いをした人間を、できればつくりたくないんだよ。

「負の終点」には、僕がなればいい。
べつにカッコつけてるわけじゃなくて、それもまた、僕にとっての幸せなのだから。
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by aru-henshusha | 2007-08-23 01:34 | 不定期なヒトリゴト。
人生には、ただ「イエス」と言えば、幸せになれるときというのがあると思う。

いや、そりゃ大雑把な言い方だけれども。
でも、あるじゃない、きっと。

何十年も生きていれば、そんな場面が、誰にでも、一度や二度あると僕は思う。


「イエス」を言う相手は、さまざまだ。

それは、恋人かもしれない。夫や妻かもしれない。
会社の上司かもしれないし、優秀なヘッドハンターかもしれない。
あるいは、家族の場合もあるだろうし、親愛なる友人の場合もあるだろう。
大きな話になるけれど、時代とか、大衆とかが相手になることもあるかもしれない。


多くの場合、そのとき「イエス」と一言言うだけで幸せになれる。
少なくとも、周りから見て、あいつは幸せだよなぁと思われるような展開になる。


けれど、僕はダメなんだ。

そういうとき、なかなか気軽に「イエス」と言えない。
いろいろ、いろいろ、ウジウジと考えてしまう。


考えて考えて、僕は僕に自問する。
お前はどうなんだ? お前は本当に「イエス」と思ってるのか?

僕はあれこれ考えたあと、やっと小さい声で言う。
「僕は、今回はノーだな」と。


僕は、本当に自己中で、わがままで、自分が好きな人間だと思う。
だから、自分が「ノー」と思ったかぎり、「イエス」とは言えない。

まわりの人が、「お前、何でイエスって言わないの?」とあきれても、
「そんなチャンスは、もう二度と来ないかもしれないぞ」と怒っても、
僕は、僕の「ノー」を一番尊重してしまう。


僕だって、本当は自信はないよ。
あとで、あのとき「イエス」と言っておけば今ごろは、と後悔するかもしれない。

だけど、それでも「イエス」とは言えない。

自分の中のどこかで、小さな声でも「ノー」という部分がある限り、
僕はその感覚を大切にしたい。



「ノー」と言うたびに、僕は誰かに迷惑をかけ、また誰かを傷つけている。

それはわかっている、いやっていうほど。

だけど、だからこそ、「ノー」と言ったあとに、きちんと生きていきたい。

今の「ノー」は、いつかの「イエス」につながるはずだ。
そう思って、寂しくても、僕は前を向く。
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by aru-henshusha | 2007-06-26 16:19 | 不定期なヒトリゴト。

つらいのである。
いきなりの愚痴で恐縮なんだけど、本当につらい。

つらさの原因は主に仕事で、諸事情で、
自分のキャパをあきらかに超えた作業量をさばくことになり、
毎日ヒーヒー言っている。

休日出勤は当たり前。
プライベートの予定は極力入れないようにして、
デスクワークと外部との打ち合わせに時間を割いているうちに、一日が過ぎていく。

毎日毎日頭をフル回転させているつもりだけど、全然追いつかない。
不本意だけど、他の人にも仕事をふって、ようやく帳尻を合わせている。

いまは多分、寝ているときが一番幸せだ。こんな状態があと2か月は続く。


けれど、そういった日々が続くことが「つらい」わけではない。
こういう職業についた時点で、いくらかの多忙は覚悟している。

いま、僕が「つらい」のは、きっと、このつらさを言える人がいないからだ。


もちろん、会社の人と話す中で、いくらか愚痴をこぼすことはある。
プライベートで知人に会えば、「最近、忙しくてさぁ」と会話の枕詞にもする。
いまだって、このブログを(たまたま?)読んでいるあなたに、
「つらい、つらい」を連呼している。

でも、そういうことじゃなくて。


話は飛ぶけど、いまの自分を、因果応報だなぁと僕は思う。

僕はむかし、ある人が「つらい、つらい」と言っているとき、
じっと聞いてあげることができなかった。

最初はきちんと聞いているつもりだったけど、
途中からはこっちもつらいんだと言いたくなって。

ときにはそれを口に出して、けんかして、
いつしかその人は僕に「つらい」と言わなくなった。

彼女は、そのときが一番つらかっただろう。

いまになって、ようやく、その気持ちがわかる。


人に「つらい」と言ったところで、僕の仕事は減るわけじゃない。
人に「つらい」と言ったところで、僕の立場は変わるわけじゃない。
人に「つらい」と言ったところで、僕の責任は軽くなるわけじゃない。

僕は、そんなことは期待していない。

ただ、つらいなぁって言って、大変だねって返してもらいだけ。

そう言ってもらえるだけで、その人にわかってもらえるだけで、
少しだけ僕は楽になる。


むかしの僕にはつらいって言える人がいて、いまの僕にはいなくなった。
ただそれだけのことなのに、本当につらい。
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by aru-henshusha | 2007-04-16 01:14 | 不定期なヒトリゴト。
遅ればせながら、先日、『オシムの言葉』を読み終えた。

普段、あまりベストセラーを読まない僕がこの本に手を出したのは、次のサイトを見たのがきっかけだ。

『オシムの言葉』|BOOKREVIEW|スタンバイ!
圧巻なのは、著者が、「悲惨な隣人殺しの戦争や艱難辛苦によって、現在のオシム監督が得たものが大きかったのでは?」と質問するシーン。オシム監督は、「確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう」と答える。「そういうものから学べたとするならば、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……」。
この言葉を知って、僕はこの本は、絶対に読まなければいけないと思った。


僕はいままで、人を強くするのは、まさに「艱難辛苦」だと思っていた。
それは、僕自身の経験から導き出された考え方である。

もちろん、僕の経験など、ボスニア紛争で家族と代表チームをバラバラにされたオシムと、とうてい比べられるものではない。

それでも僕は、自身の幼少期から少年期に至るまでの苦労と涙が、僕を強くしてくれたと、ずっと信じていた。


たとえば、物心ついたときから父親がいなくて、母親にもかまってもらえず、親戚の家で一日の大半を過ごしていたことは、僕に何がしかの影響を与えはしただろう。

じっさい、僕はその家で人の顔色を伺うことを覚え、同時に、一人でも強く生きる術を身につけた。
それらの「スキル」は、後年、僕が大事な一歩を踏み出すときに、背中を押してくれたことは疑いない。


けれど、オシムの言葉を知って、僕はこの考えを改める(あるいは修正する)必要性を感じている。

「それ」があったから、僕が(わずかでも)強くなれたことは否定しない。

だけど、「それ」は、なくてもよかった出来事ではないのか?
「それ」がなくても、強くなれるとしたら、そのほうがよいのではないか?


僕は、これからも、ちょっぴりずつでいいから、強くなりたい。
でも、そのために、わざわざ辛く悲しい思いをしたくはない。

人は、艱難辛苦からしか、強くなれないのだろうか?
強さとは、苦しみと悲しみの「化合物」でしかないのだろうか?


たいした根拠はないけれど、僕はそうではないと言いたい。
強さは、ときに、優しさや喜びからも生まれるものだと、僕は思う。

そういう強さを、僕は持ちたい。
そして、強くなるためには、優しさや喜びこそが必要なんだと、僕は言いたい。
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by aru-henshusha | 2007-01-28 23:54 | 不定期なヒトリゴト。
もう少しで、2006年が終わる。
来年にむけて、少しは前向きなことでも書きたいのだけど、
残念ながらそういう気分ではない。


僕はいま、迷っている。
何を迷っているかはここでは言えないけど、とても、とても、迷っている。

なぜそこまで迷っているのか。
きっと、それが自分にとって初めての「問題」だからだろう。

その問題の解き方を、僕は知らない。
まったく見たことがなかった問題で、どこから手をつけていいのかもわからない。

だから、いろんな人に、その問題について聞いてまわった。

人から教わることがあまり好きじゃない僕が、いろいろな人に、
その問題をどんな「方程式」でを解いたのかをたずねた。


でも、けっきょく、まだ迷っている。
人によって、その人なりの解き方があって、どれがいいのか、僕にはわからなくて。

本当は、自分の直感を信じて、解答用紙にいますぐ答えを書き込みたい。

だけど、その手が震えている。
この問題だけは、どうしても「正解」がほしいから。


僕にとっての「正解」はなんだろう?
あなたにとっての「正解」はなんだろう?

あなたは、どんな答を解答用紙に書いたのだろう。
できるものなら、カンニングでもなんでもして、その答を知りたいぐらい。


人生にはいろいろな問題があって、ときにはすぐに解けない難問もある。
あるいは自分で、これは解かなくてもいい、と決めた問題もある。

けれど、この問題が解けなければ、僕は解答用紙を提出できない。
この問題を飛ばしたら、僕は前に進めないから。

だから、まだ迷っている。


この問題の正解はなんだろう?
この問題の正解は、本当にあるんだろうか?

僕が出した答が間違っていても、不恰好な解き方でも、あなたは許してくれますか?


そんなふうに迷って迷って、1年がもう終わろうとしているのに、解答用紙は白紙のままだ。

でも、答は、必ず、来年に。
それがどんな答であっても、人生には答を出さなければいけないときが、きっとある。
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by aru-henshusha | 2006-12-31 23:16 | 不定期なヒトリゴト。
アメリカの女流作家、ウィラ・キャザーが、
ひとりでは多すぎる。ひとりではすべてを奪ってしまう。
ということを書いている。ここの「ひとり」とは恋人のこと。相手がひとりしかいないと、ほかが見えなくなって、すべての秩序を崩してしまう、というのである。

『思考の整理学』42ページ)

本屋で何気なく手に取ったこの本で、この言葉を見つけたとき、
僕はずっと解けなかった数学の問題が、いっきに解けたような気がした。

そう、あの日、君に言われた、

「お互い違う人を見たほうがいい」

という言葉の意味が。


ほかの人のことはよく知らないけど、僕たちは、
お互い律儀に、ずっと「相手ひとり」を見てきた。

だけど、僕たちは、完璧じゃなくて(あるいは互いが完璧を求めすぎて)、
その「ひとり」のために、ずいぶん悩んで喧嘩もした。


僕が君に心ない言葉をぶつけると、君は必ず、
「だったら、あなたが私を捨てればいいでしょう」と言い返した。

それでも僕は、その「ひとり」を手放すことができなかった。

「ひとり」は僕の生活のなかで、たしかに「多すぎる」存在で、
でも、その「ひとり」がいなくなったら、僕にはほとんど何もなかったから。


けれど、君にとって、僕はもう「すべてを奪う」だけの存在だったんだよね。
だから、僕は君の「ひとり」ではなくなった。


何だかんだいって、僕は君の「言いつけ」を守る男で、
いま、精一杯、違う人を見ようとしてる。

でも、本当に見てるだけなんだ。


君より、きれいな人はいくらでもいる。
君より、かわいい人もいくらでもいる。
君より、頭のいい人もいくらでもいる。
君より、僕の仕事や立場を理解してくれる人もいくらでもいる。

けれど、そういう人が、僕にとって次の「ひとり」になるのだろうか。
(むろん、相手の意思が第一だけど)僕には、まだそう思えない。

僕の「ひとり」は、まだ君だ。
指定席には、相変わらず君が座り続けている。


僕も君も、けっきょく「ひとり」しか見られない人間だと思う。

その「ひとり」がお互いである必要はないけれど、
君に新しい「ひとり」ができれば、君はまたその人を見続けるだろう。

たぶん、そういう愛し方しか、僕らはできない。
でも、それは決して、言うほど悪いものではないと僕は思う。


「ひとり」は奪うだけのものではない。

僕は、「ひとり」に色々なものをもらったよ。
それは、僕自身が一人になったとき、このなかに生きている。

奪われるだけなら、あんなに一緒にいられなかった。
次の「ひとり」ができたときに、そのことだけは思い出してよ。
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by aru-henshusha | 2006-12-17 17:14 | 不定期なヒトリゴト。
「好きだから、一緒にいたい」と僕は言い、
「好きだけど、一緒にはいられない」と君は言った。

話をまとめれば、結局は、それだけのこと。


僕は、今日また一つ歳をとったのに、あいかわらず幼くて単純で。
好きだから」の言葉に甘えていた。

僕が君を好きで、君が僕を好きならば、それだけでうまくいくと思っていた。


でも、もう駄目だったんだね。

君の中で、日に日に大きくなっていく「好きだけど……」の気持ちを、
僕は打ち消すことができなかった。

君から見れば、打ち消す努力が足りなかったと言われても仕方がない。


好きだから、まだまだ一緒にいたかったけど、
好きだから、もう一緒にいてはいけない。

どっちの「好きだから」も本心だから、本当に困る。


君にも早く、「好きだから」と言える人が見つかるといい。

好きだけど、応援するし、僕にできることは、
もうそれぐらいしか残っていないから。
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by aru-henshusha | 2006-11-19 16:43 | 不定期なヒトリゴト。