ある編集者の気になる人・事・物を記録したブログ。ときおり業界の噂とグチも。


by aru-henshusha

カテゴリ:不定期なヒトリゴト。( 69 )

僕には、小学生から中学生にかけての記憶があまりない。
もともと忘れっぽいたちだからと言えばそれまでだけど、多分、それだけではない。

小学校の高学年から、中学の3年間、僕はいじめられていた。
具体的にどういう目にあってたのか、すべては思い出せない。思い出したくもない。

ただ、中学校の修学旅行先での、あの日のことだけは覚えている。


あの日の夜、僕は自分の班の部屋で寝ていた。
当時僕をいじめていた男が、自分の部屋を抜け出して、僕の部屋に来た。

彼は、寝ていた僕の顔を、裸足で踏みつけた。
僕は、それでも寝たふりを続けた。

彼は、僕が起きるまで、その足で僕の顔を踏みにじった。
せっかちな男が、たばこの火を靴の裏でもみ消すように、何度も何度も。

僕はただ、「やめろよ」とだけ言って、布団をかぶった。
耳ざわりな笑い声を残して、彼は消えた。

本当に、本当に、殺してやりたかった。


だけど僕には、(あえてこの言葉をつかうが)「勇気」がなかった。
彼を殺す勇気も、あるいは自分を殺す勇気もなかった。

「死にたい」と思った瞬間は何度もあったけど、結果として生きた。
生き延びて、生き延びて、高校へ進み、大学へ進み、いじめとの縁は切れた。


いじめられていたころの僕にとって、人生は真っ暗な闇だった。
いや、厳密に言えば、ときおりそこに射す光に僕は気づけなかった。

一日一日が苦痛で、怖くて、たまに訪れるささやかな幸福も、心から味わえなかった。


じゃあ、いまの僕の人生は?

相変わらず、辛いことはある。理不尽で悔しいことも起きる。

でも、楽しい瞬間を、心から楽しいと思えるようになった。
闇にときおり射す光を、まぶしくて、大切なものだと気づけるようになった。


人の一生に、楽しい瞬間や幸せな時間が占める割合がどれだけあるのか、僕は知らない。
その割合は、きっと、人によって違うのだろう。

けれど、誰の人生にでも、いつかはそういうときがあるはずだと、僕は思う。

たとえそれが、思いのほか少ない時間であっても、
その一瞬のために生きてこれたと思えるときが、誰の人生にもあるはずだ。

根拠はないけど、僕は思う。


だから僕は、「生きろ」と言いたい。


つらい気もちはわかる。殺したい気もちもわかる。死にたい気もちも痛いほどわかる。

でも、死んでしまえば、本当に終わりだから。
あなたの人生に射す光を、気づかないまま死んでしまうのは、悲しすぎるから。


生きることは、決して真っ暗な闇なんかじゃない。

頼りない「先輩」の僕としては、これぐらいのことしか言えないけど。

しぶとくしぶとく、生きてほしい。
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by aru-henshusha | 2006-11-04 14:21 | 不定期なヒトリゴト。
なんか勘違いされそうなので先に書きますが、べつに恋愛の話ではありません。

これから書こうと思っているのは、仕事の話。
でも、もしかしたら、恋愛に通じるところもあるのかもしれない。


編集者という仕事には、「人を選び、人に選ばれる」側面があります。

一冊の本をつくるには、著者やデザイナー、場合に応じてライター、イラストレーター、写真家などの協力が必要です。
その際、どうしても「人を選ぶ」ことになる。

このテーマだからこの著者にお願いしよう、多少遊んだカバーにしたいからあのデザイナーさんがいいかな、このイラストレーターさんは今回の本には合わないかな……
そんなことを考えながら、一冊一冊につき、最良の人選を心がけているつもりです。


でも、同時に、僕ら編集者も「選ばれ」ます。
あなたと仕事をしたいと一方的にいったところで、先方に断られることは多々あります。

相手がこちらを選ばなかった理由は様々です。

スケジュールが合わない場合もあれば、ギャラで折り合いがつかないこともあるでしょう。
テーマがピンとこないこともあるし、「こいつとはどうも仕事をしたくないなぁ」と思われることさえあるかもしれない。

いずれにせよ、僕らが相手を選んだところで、相手から選ばれる保証はありません。


「この人だ」と思った人から選ばれないのは、つらく、寂しいことです。

けれど、そこで「どうして自分を選んでくれないんだ」と嘆いたところで、事態は変わりません。
それよりも、「どうしたら自分を選んでくれるのか」を考えるほうが、まだましでしょう。


もちろん、世の中には、「どうしても自分を選んでくれない人」だっているかもしれません。

そういう場合は、仕方がないのかなと思います。
その人が自分を選ばないように、自分が誰かを選ばないときも、きっとあるのだろうから。


僕はそれでも、「選ばれるための努力」だけは、細々とでも続けていくでしょう。

そういうことの積み重ねが、ほんのちょっとだけだけでも、自分を成長させてくれると思っているので。
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by aru-henshusha | 2006-10-08 20:28 | 不定期なヒトリゴト。
先日、うちの会社の人間が、ある失敗をおかした。

その失敗は、僕の担当作と関係があるものだった。
よって仕事の関係上、失敗が明らかになってすぐ、僕は彼から説明を受けた。

彼の説明はとてもわかりやすく、失敗の経過、原因はおおむね見えてきた。

しかし、ひとつだけ気になったことがある。
彼が言う失敗の原因は、すべて彼の「外」にしかないのだ。


今回の失敗には、じつは彼以外にもう一人、社外の人間がからんでいる。

そして彼が僕にした説明は、要約すれば、
「全部、この社外の人間が悪かった」ということに終始した。

なるほど、話を聞くかぎりでは、今回の失敗には、
その社外の人間の判断ミスが、大きく作用しているように思える。

けれど、はたしてそれだけなのだろうか?


ひとつの仕事には、たいていの場合、複数の人間がからんでる。
各自のからみぐあいによって、その仕事が失敗したときの責任や落ち度は、
変わってくるだろう。

だけど、そのとき、たった一人に100%失敗の原因があると言えるだろうか?

べつに仕事でなくてもいい。
団体スポーツで試合に負けたとき、指揮官一人、あるいは選手一人が、
100%負けの原因と言い切れるときは、少ないのではないか?


僕は、たいていの失敗の原因は、自分の「外」だけにあるものではないと思う。

今回の失敗の例で言えば、外部の人間が判断ミスをおかさないよう、
社内の人間が意思疎通の面などで、もっとバックアップすべきであった。
しかも、それにかかる労力など、ほんのひと手間にすぎない。

彼はそのような手間をすっ飛ばしたうえで、いけしゃあしゃあと、
「すべて外部の落ち度です」と言い切ったのだ。


こんな予言はしたくないが、彼はきっと近いうちに、
また同じような失敗をおかすだろう。

失敗の原因が、自分の「外」にしかない、なんてことはレアケースだ。
それもわからず、失敗から学ばない人間に、未来永劫、成長はない。
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by aru-henshusha | 2006-09-18 15:33 | 不定期なヒトリゴト。

飲み会などで初対面の同業者と話すとき、「共通の知人」がいると、いっきに楽になる。

「僕、御社の●●さんにはよく飲みに連れて行ってもらってるんですよ」
「<週刊**>の■■さん、こないだお会いしましたよ。いつもお忙しいみたいで……」

なんて、その知人をとっかかりにすれば、初対面どうしでもけっこうスムーズに話せるからだ。

でも、いつもこういう「やり口」でいると、ときに悩ましい場面に出会うことがある。
じつは先日も、二回続けてこういうことがあった。


その日僕は、ある出版社の男性と名刺交換をするさい、旧知のAさんの名前がつい口を出た。
「Aさん、ますますご活躍のようですね」といった僕に、名刺交換の相手は露骨に嫌な顔をした。

「ああ、Aね。外ではホープって言われてるんでしょう?」


そのあと、どのような言葉が彼の口からもれてきたか、ここには書かない。
彼はまるで、同僚であるAさんよりもオレのほうができるよと言いたそうに、僕に言葉を吐きつけた。


おなじ日の夜、僕はたまたま、違う会社の編集者と飲みに行った。
相手は、以前一度だけ会ったことのある、初対面同然の人だ。

酒が進むにつれて、僕はふとBさんの消息を尋ねた。

「最近、Bさん元気ですか? 以前はよく飲み会でお会いしたんですが……」

当然、そこからはBさんの話になる。
元気そうか、いまどんな仕事をしているのか、当たり障りのない話が続いたあと、ポツリと。

「私、Bさんとは正直、合わないんですよねぇ」

え、そうなんですか? と理由を聞く。
僕の知ってるBさんとは違う(好ましくない)一面を、初めて知った。


人には、いろいろな顔がある。

上司に見せる顔、同僚に見せる顔、後輩に見せる顔、取引先に見せる顔、社外の仲間に見せる顔……。
会社関係だけを考えてもたくさんの顔があり、実際には、さらに色々な感情、しがらみがからみつく。

Aさんも、Bさんも、僕に見せてくれるのは「社外の顔」だ。
それが、どれだけ「社内の顔」と重なるのか、異なるのかは想像もつかない。


僕が知ってるあの人と、あなたが知ってるあの人は、けっこう違う顔をしているらしい。
僕としても、そこまで言われれば、「そういうことを言う人もいる」ぐらいの認識はしておきたい。

だけど、僕が知ってるあの人も、あの人も、僕にはとてもいい人なんだよね。

それが、たとえ外部へのポーズに過ぎないとしても、僕に見えるのは、その顔だけなんだよ。
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by aru-henshusha | 2006-08-27 14:13 | 不定期なヒトリゴト。
よく、「話せばわかる」という人がいる。

だけど、あれは本当は「話せばわかる(場合もある)
ということだと僕は理解している。

お互いの意見がぶつかろうと、5分も話せばわかり合える人もいれば、
どんなに言葉を尽くしても、絶対にわかり合えないときがある。

なぜ、そうなのか?

それを考えるには、まず「話せばわかるケース」を
分類・定義してみればよいのではなかろうか。



・話せばわかるケース1
「お互いの目的あるいは背景が一致している場合」

職業柄、本のデザインを例にして、話を進めよう。

たとえば、ある本のカバーデザインでAさんとBさんの意見がぶつかったとする。

俺はX案がいい、私はY案のほうがいい。

こう意見が分かれたとき、かりに、
「20代女性向けにアピールするようなデザインにする」
という目的が二人の間で一致していれば、話し合いの余地はある。

もちろん、何が20代女性向けなのかは各々思うところが違うだろうが、
それでもその目標に向けてお互いの意見を調整して、
前に進める可能性は高いだろう。


・話せばわかるケース2

「お互いの落としどころ、あるいは譲りどころがかみ合う場合」

やはり、本のカバーデザインの例で説明する。

Aさんは、緑色のカバーに明朝体のタイトルのデザインがいいと言う。
Bさんは、黄色のカバーにゴチック体のタイトルが一番だと言う。

だがこのとき、二人に譲れるところはないだろうか?

かりにAさんが、カバーの色は譲れないけど書体にこだわりがなく、
Bさんが書体のデザインはこれで行きたいが、カバーの色は柔軟に考えるとしたら。

お察しのとおり、「緑色のカバーにゴチック体のタイトル」でいけば話は収まる。
(実際にはこんな単純には決まらないよ、念のため)


まあ、上の例が適当かどうかはわからないし、
これ以外のケースでも「話せばわかる」ときはあるだろう。

とはいえ、やはり何らかの条件が整ったときこそ、
「話せばわかる」の効力は発揮される
のではなかろうか?

もしも、お互いの目的や背景がズレており、
なおかつ自説をすべて譲れない人同士がぶつかれば、
「話せばわかる」の境地に達するのはかなり困難だろう。


話し合いは万能ではない、と僕は思う。
ただし、それは話し合いの価値を否定することを意味しない。

自分は納得しかねるけど、そういう考え方もある、
と受け止めるのも、考え方の幅を広げる際には必要だ。

だからといって、いつまでも不毛な話し合いを続けるほどの余裕は、僕にはない。
わかり合えなくてもいいからいつまでも話したいと思える相手など、人生にそうはいない。
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by aru-henshusha | 2006-08-24 12:19 | 不定期なヒトリゴト。
東京メトロ東西線で車両から煙、けが人なし(Sankei Web)

上のアクシデントが起きたとき、僕は偶然にも、東西線の九段下駅のホームで、中野方面への電車を待っていた。

このとき、駅員が最初にしたアナウンスは、

「門前仲町で車両故障が起きたため、九段下―中野間で折り返し運転が行なわれる予定です」

といったものだった。


このアナウンス、現場で聞くと、正直、よく理解できなかった。

僕および、ほかの客が知りたいのは、

自分が乗るべき電車がいつ来るのか、それに乗るにはこのまま待っていればよいのか

という一点のみである。

しかし、このアナウンスでは、それに対する情報がほとんどない(ように僕や客の大部分には思えた)。


「折り返し運転」というからには、多分、反対方向(葛西方面)に進む電車が九段下で折り返すということなのだろう。
ならば、その電車に乗るには、自分たちは反対側のホームに行くべきなのか?

いや、でも、もしそうだったらその旨のアナウンスがあるだろう。
そもそも、「折り返し運転が行なわれる予定」というぐらいだから、もう少し待つなり、駅員に詳しく事情を聞くなりしてみよう。


こんなことを考えているうちに、反対側のホームに電車が来た。

特にアナウンスもなかったから、あれはそのまま葛西の方へ向かうのだろう。
あちら側の人は電車に乗れていいなぁと、僕は単純に思っていた。

ところが、いざ電車が動き出す寸前に、この電車は中野行きです、とアナウンスが告げたのだ。
僕やほかの客は、向かい側のホームを唖然として見つめていた。
(いっぽう、この事実に気づかなかった客も少なからずいたようだ)


僕は数人の客とともに窓口に向かい、駅員に事情を聞く。
だが、この時点では駅員自体が、事情を飲み込めていなかった。

「え、向かい側から出たんですか?」

と驚く駅員。あわててどこかに電話をかけて、ぐずぐずと話し込んでいる。


このころになると、客の中には興奮しだす者もいて、「一体どうなってんだ!」と駅員にキレるわ物を投げるわで、イヤ~なムード。

いっぽう、年をとった駅員は、

「さっき、お客さんに怒られてさ~、ねぇ、(中野方面行き電車は)そっちから出んの?」
「こっちだって、どうなってるのかわからないんですよ~」

と、事態を解明しようとしつつも、緊急さは感じられない。


そうこうしているうちに、また向かい側のホームに電車が来た。

これが中野方面行きへの電車かとの問いにろくに答えられない駅員を尻目に、僕と数人の客は、反対側ホームへの連絡通路に駆け込んだ。

けっきょく、それは中野方面行きで、とりあえず僕らは一安心。

しかし、こちら側のホームに中野方面行き電車が来たというアナウンスはきちんとされず、自力で気づいて「駆け込みアウト」になった客が何人もいた。


いやはや、状況説明に行数を費やしすぎてしまったが、あの場で感じたことを手短かに書こう。

べつに客の大半は、アクシデントが起きたことを怒っているわけではない。
車両故障というものがどれくらいの確率で起きるのかは知らないが、毎日営業していたら、そういうことだって起きるだろう。

だけど、あの応対だけはいただけない。

いつまでたっても、正確な情報が、一般客に理解できるようなかたちで広まらない。
利用者としては、それほど腹立たしいことはない。

駅員の間でも情報が錯綜したのかもしれないが、「いち早く、正確な情報を、わかりやすくお届けするため頑張っています」という態度すら見られないのでは、怒る客だって出るだろう。
(だからといって、キレたり、物を投げつけたりしてもいいわけではないが)


あのとき、東西線九段下の駅員には「早さ・正確さ・わかりやすさ」が足りなかった。
もっと言えば、その三点が大事であるという認識さえも、僕には見受けられなかった。

あるのは、「何で俺が勤務してるときに、こんなことが起きるんだよ~」という面倒な表情だけ。

でも、あのときホームにいた客の誰もが、同じようなことを思っていたのは忘れないで頂きたい。
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by aru-henshusha | 2006-07-30 20:42 | 不定期なヒトリゴト。
昔、母親にこんなことを言われたことがある。

「私はあなたなんか生みたくなかったの。
あなたを生んでくれって言ったのはお父さんよ」

母が僕に対して、どういう気持ちでこんな言葉を言ったのかは知らない。
父と母との間で、本当にこういうやり取りがあったのかもわからない。

だけど、僕はこの言葉にひどく傷ついた。

何せ、実の母親から「あなたは必要ない」と言われたのも同然だから。

そして、僕のことを「必要だった」はずの父親は、僕が三歳のときには家を出ていた。
僕は彼には引き取られなかったし、彼は離れた場所で、また新しい家庭を持った。

必要だった」はずの僕は、結果的には、父親にも母親にも「必要とされない」存在だった。


そんな生い立ちだったから、僕はできるだけ「人を必要としない」で生きてきた。

自分のことは、できるだけ自分でした。
人に頼るのが嫌だった。

友達を必要としなかった。
相手は僕を友達と思っていても、僕は心からそうだとは思えなかった。

両親から「必要とされなかった」自分が、誰かを「必要とする」ことが許せなかった。
一時的に力を借りることはあっても、永続的に依存することはできなかった。


そんな僕が変わったのは、間違いなく、君と出会ってからだ。

僕は君のことを、本気で必要だと思った。
一目ぼれだと言えばそれまでだけど、自分の人生にはこの人が必要なんだと、僕は確信した。

二人はやがて付き合った。

二人で誕生日を祝いあって、記念日を数えているうちに、いつの間にか七年が過ぎていた。

喧嘩はいっぱいしたけれど、お互いがお互いを「必要」としている関係だと思っていた。


だから、あの日の君の言葉が、僕にはまるで死刑宣告のように聞こえた。

私にあなたが必要なのか、もうわからなくなった

僕は、瞬間的に、あの日の母の言葉を思い出していた。

ああ、僕は、君からも必要とされない人間なんだなぁって。
ただ、僕が君を必要としてただけなのかもなぁって。

君はその言葉とともに、しばらく距離をおきたいといって、僕のもとから去った。


あの日から僕は、その言葉がずうっと頭から離れなかったよ。

仕事の合間にふと手を休めたとき、休日に一人で飯を食ってるとき、夜が更けてようやくベッドにもぐりこんだとき。

自分は君にとって、必要なのか、必要じゃないのか。
考えても、考えても、わからなくて。

それで、けっきょく、君の答えを待つことにした。


待っている間、「私には、あなたは必要ない」と言われることが本当に怖かった。
自分がここまで必要としている人に、必要でないと言われるのが辛かった。

そんなことは、いくらでも起き得ることだと頭ではわかっている。
でも、この七年間、君のことをを愚直に必要としてきた僕には、その傷はすぐには癒えないだろうと思うと憂鬱だった。

そんな恐怖におびえている間に一か月が過ぎ、昨日、君から、電話をもらった。


久しぶりに声を聞いて、気づけば三時間も話していた。

僕が君に何を言い、君が僕に何を言ったのかは、ここには書かない。

だけど、一つだけ書いておきたいのは、君にとって、僕がまだ必要らしいとわかったこと。


君が僕を必要で、僕が君を必要ならば。
それ以上、僕が言うことはない。

君に必要とされる喜びは、、どんな言葉でも表しきれるものじゃないから。
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by aru-henshusha | 2006-07-18 00:20 | 不定期なヒトリゴト。
*この記事は、映画「日本沈没」の試写を見て考えたことがベースとなっています。
映画のネタバレは避けられませんので、同映画を見る予定の方、見るかもしれないという方は、極力スルーしていただいたほうがいいと思います。








今日、映画「日本沈没」の試写会に行った。

先ほど見てきたばかりだし、感想はいろいろあるけれど、一つだけ、自分の中に強く残った問いがある。
それは、人を守るために、自分の命を捨てられるかということだ。


映画の終盤、草なぎ(字が出ない)演じる小野寺という潜水艇のパイロットが、愛する人を、ひいては日本を守るために、ある行動に出る。

その行動は、彼の「」が前提となった行動だ。
行動の結果、愛する人が守られようが守られまいが、どちらにしても彼は死ぬのである。


話がそういう展開になったとき、僕はこの映画を見続けることが苦痛で仕方なかった。

おいおい、けっきょく「死ぬ」のかよ。
生きる」という選択肢は、万に一つもないのかよ。

そう思うと、僕はこの映画も草なぎの熱演も、何もかも嫌になった。


こういうことを言うと、僕を非難する人もいるだろう。

愛する人(あるいは国)を守るために、一人の人間が命をかける。
それは尊いことである、美しきことである、感動的なことであると。


なるほど、そう思う人もいるだろうし、そう思うことが悪いと言いたいわけではない。

でも、そう思う人がどんなに多かろうと、僕はそういう考えが好きではない。
それが、どんなにカッコよく見えようとも、人を守るために「死ぬ」ということを、僕は積極的に支持したくはない。


どんなシチュエーションであろうとも、僕はいつでも「生きる」ことを考える。
たとえ僕が映画の小野寺パイロットのような境遇におかれても、僕はどうにかして「生きる」方法を探すと思う。

べつに、カッコ悪くてもいい。自分勝手と言われてもいい。他人に卑怯と思われてもいい。
自分と、自分の愛する人が、ともに生き残る方法を考える。

そして、生きて、生きて、それから先も、ずっとその人のことを守っていきたいと切望するだろう。
僕にとって「守る」とはそれだけ永く、泥臭い行為である。


物語を終わらすにあたり、主人公が死ねば涙の一つも出るだろう。

あなたは私たちのことを命がけで守ってくれた、ありがとう。
私たちはあなたのぶんまで生きていきます、としめれば一応の格好はつくだろう。

だけど、僕らの人生は、そこでエンドロールが流れるわけじゃない。
残された人たちの人生は、まだまだずっと続いていく。


こんなふうに考える僕は少数派かもしれないけれど、それでもいい。
僕はいつでも、しぶとく、いやらしく生きていく。

死んだらそこで終わりである。死んだらもう君を守れない。


そんな話を、前にもたしか一度だけ、君にしたことがあった。
それを思い出したから、僕はこんなに熱くなってるのかもしれない。
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by aru-henshusha | 2006-07-05 23:07 | 不定期なヒトリゴト。
最近、久しぶりに将棋を指している。

といっても、相手は人ではなく、フリーの将棋ソフトだ。
ボナンザ」といって、コンピュータ将棋選手権でも優勝した猛者である。

帰宅してから寝る前の暇つぶしに、これまで何局も戦った。
だが、恥ずかしながら、いまだ一勝もしていない。

ときおり、対局が終わったあとに、ソフトの機能を利用して指し手を再現することがある。

「あのとき、こう指しておけばよかった」「この一手がマズかったなぁ」

そんなふうに、自分の選んだ一手、選べなかった一手を後悔ばかりしてしまう。


久しぶりに将棋を指していると、ふと、人生と将棋は似ているなぁと思う。

誰の人生にも、一度や二度の「悪手」はある。

指してはいけないとわかりながら、指してしまった手。
指せばよかったと思いながら、けっきょく指せなかった手。

けれど、「対局中」に、いつまでもそれを引きずっていてもしょうがない。
勝負が続く限りは「次の一手」に注力すべきである。


ここ数日、自分が指した悪手を、ずっとずっと悔やんでいた。

でも、それはもう過去の一手である。
どんな理由があれ、「待った」をかけようとは思わない。


いま僕は、君の「次の一手」を待っている。
指してほしい手があれば、指してほしくない手もある。

だけど、どんな手が来ようと、受け止める。
それが君が選んだ手であるかぎり、真剣に受け止める。

制限時間は決めてないから、思いっきり長考すればいい。

どんな一手でも、君が一生懸命決めたこと。
その一手を見届けるのが、僕の役目だ。
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by aru-henshusha | 2006-06-11 23:19 | 不定期なヒトリゴト。
携帯電話を切ってから、今日が君との記念日だと思い出しました。

付き合って7年と1か月。
こんな日に別れの電話をもらうなんて、冷静に考えれば笑うよね。

予感がなかったわけじゃない。

僕は君をそれだけ追い詰めてたと思うし、でも、それを知りながら何もできなかった。
うん、ぜんぶ自業自得。


今年はほんとケンカばかりしてたよね。

君が僕を怒らせて、僕が君を怒らせて。
罵り合って、傷つけあって。

それでも好きだったから、ほんとバカだなぁと思う。
憎んで憎んで憎んだまま別れられたのなら、きっとこんなに痛くはなかった。


この7年間で僕は変わった。
よくも、悪くも変わった。

でも、僕を「よく」してくれたのは君だと思う。
君は、何もしていないよというかもしれないけれど。

君がいたから変われた部分は、いっぱいあった。


僕は、言い訳はしたくない。

泣き言だって言いたくはない。
(もう言ってるかもしれないけれど)

君に僕が言えるのは、「ありがとう」と「幸せに」。
本当に、本当に、幸せになってください。


幸せへと続く道は、決して一本なんかじゃない。

今日、僕と君は違う道に別れて、もう二度と出会うことはないかもしれないけれど。
君が選んだその道に、たくさんの幸せがあることを。

もしも道に迷ったら、また電話でもしてくれよ。
俺も方向音痴だけど、ちんたらちんたら、君の横を歩くことぐらいならできるから。

ありがとう、そして幸せに。

愛してるなんて、いまさら言わなくてもわかるだろ?
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by aru-henshusha | 2006-06-08 02:04 | 不定期なヒトリゴト。