ある編集者の気になる人・事・物を記録したブログ。ときおり業界の噂とグチも。


by aru-henshusha

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オフ会、キャンセルの方が2名出ました。
すでに1名、ご応募をいただいたので、あと1名追加募集いたします。
基本的に先着です。

参加ご希望の方は詳細・注意を読み、応募してください。


*定員に達しましたので、締め切ります
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by aru-henshusha | 2007-03-07 00:15 | 特別企画
遅くなりましたが、オフ会の詳細です。

日時、会場等、すべてこちらの独断で申しわけありません。
経験上、いろいろな方の希望を聞くと、なかなかまとまらないので、何卒ご容赦を。

参加に当たっての注意点なども結構あるので、よくお読みください。

*現在、12名の方から、ご参加メールをいただきまして、定員に達しました。
今後キャンセルが出るようでしたら、追加募集いたします。
  ↓
1名キャンセルの方が出たので、追加募集中です(3/7)

詳細はこちら
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by aru-henshusha | 2007-02-06 13:18 | 特別企画
遅ればせながら、先日、『オシムの言葉』を読み終えた。

普段、あまりベストセラーを読まない僕がこの本に手を出したのは、次のサイトを見たのがきっかけだ。

『オシムの言葉』|BOOKREVIEW|スタンバイ!
圧巻なのは、著者が、「悲惨な隣人殺しの戦争や艱難辛苦によって、現在のオシム監督が得たものが大きかったのでは?」と質問するシーン。オシム監督は、「確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう」と答える。「そういうものから学べたとするならば、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……」。
この言葉を知って、僕はこの本は、絶対に読まなければいけないと思った。


僕はいままで、人を強くするのは、まさに「艱難辛苦」だと思っていた。
それは、僕自身の経験から導き出された考え方である。

もちろん、僕の経験など、ボスニア紛争で家族と代表チームをバラバラにされたオシムと、とうてい比べられるものではない。

それでも僕は、自身の幼少期から少年期に至るまでの苦労と涙が、僕を強くしてくれたと、ずっと信じていた。


たとえば、物心ついたときから父親がいなくて、母親にもかまってもらえず、親戚の家で一日の大半を過ごしていたことは、僕に何がしかの影響を与えはしただろう。

じっさい、僕はその家で人の顔色を伺うことを覚え、同時に、一人でも強く生きる術を身につけた。
それらの「スキル」は、後年、僕が大事な一歩を踏み出すときに、背中を押してくれたことは疑いない。


けれど、オシムの言葉を知って、僕はこの考えを改める(あるいは修正する)必要性を感じている。

「それ」があったから、僕が(わずかでも)強くなれたことは否定しない。

だけど、「それ」は、なくてもよかった出来事ではないのか?
「それ」がなくても、強くなれるとしたら、そのほうがよいのではないか?


僕は、これからも、ちょっぴりずつでいいから、強くなりたい。
でも、そのために、わざわざ辛く悲しい思いをしたくはない。

人は、艱難辛苦からしか、強くなれないのだろうか?
強さとは、苦しみと悲しみの「化合物」でしかないのだろうか?


たいした根拠はないけれど、僕はそうではないと言いたい。
強さは、ときに、優しさや喜びからも生まれるものだと、僕は思う。

そういう強さを、僕は持ちたい。
そして、強くなるためには、優しさや喜びこそが必要なんだと、僕は言いたい。
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by aru-henshusha | 2007-01-28 23:54 | 不定期なヒトリゴト。
もう少しで、2006年が終わる。
来年にむけて、少しは前向きなことでも書きたいのだけど、
残念ながらそういう気分ではない。


僕はいま、迷っている。
何を迷っているかはここでは言えないけど、とても、とても、迷っている。

なぜそこまで迷っているのか。
きっと、それが自分にとって初めての「問題」だからだろう。

その問題の解き方を、僕は知らない。
まったく見たことがなかった問題で、どこから手をつけていいのかもわからない。

だから、いろんな人に、その問題について聞いてまわった。

人から教わることがあまり好きじゃない僕が、いろいろな人に、
その問題をどんな「方程式」でを解いたのかをたずねた。


でも、けっきょく、まだ迷っている。
人によって、その人なりの解き方があって、どれがいいのか、僕にはわからなくて。

本当は、自分の直感を信じて、解答用紙にいますぐ答えを書き込みたい。

だけど、その手が震えている。
この問題だけは、どうしても「正解」がほしいから。


僕にとっての「正解」はなんだろう?
あなたにとっての「正解」はなんだろう?

あなたは、どんな答を解答用紙に書いたのだろう。
できるものなら、カンニングでもなんでもして、その答を知りたいぐらい。


人生にはいろいろな問題があって、ときにはすぐに解けない難問もある。
あるいは自分で、これは解かなくてもいい、と決めた問題もある。

けれど、この問題が解けなければ、僕は解答用紙を提出できない。
この問題を飛ばしたら、僕は前に進めないから。

だから、まだ迷っている。


この問題の正解はなんだろう?
この問題の正解は、本当にあるんだろうか?

僕が出した答が間違っていても、不恰好な解き方でも、あなたは許してくれますか?


そんなふうに迷って迷って、1年がもう終わろうとしているのに、解答用紙は白紙のままだ。

でも、答は、必ず、来年に。
それがどんな答であっても、人生には答を出さなければいけないときが、きっとある。
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by aru-henshusha | 2006-12-31 23:16 | 不定期なヒトリゴト。
アメリカの女流作家、ウィラ・キャザーが、
ひとりでは多すぎる。ひとりではすべてを奪ってしまう。
ということを書いている。ここの「ひとり」とは恋人のこと。相手がひとりしかいないと、ほかが見えなくなって、すべての秩序を崩してしまう、というのである。

『思考の整理学』42ページ)

本屋で何気なく手に取ったこの本で、この言葉を見つけたとき、
僕はずっと解けなかった数学の問題が、いっきに解けたような気がした。

そう、あの日、君に言われた、

「お互い違う人を見たほうがいい」

という言葉の意味が。


ほかの人のことはよく知らないけど、僕たちは、
お互い律儀に、ずっと「相手ひとり」を見てきた。

だけど、僕たちは、完璧じゃなくて(あるいは互いが完璧を求めすぎて)、
その「ひとり」のために、ずいぶん悩んで喧嘩もした。


僕が君に心ない言葉をぶつけると、君は必ず、
「だったら、あなたが私を捨てればいいでしょう」と言い返した。

それでも僕は、その「ひとり」を手放すことができなかった。

「ひとり」は僕の生活のなかで、たしかに「多すぎる」存在で、
でも、その「ひとり」がいなくなったら、僕にはほとんど何もなかったから。


けれど、君にとって、僕はもう「すべてを奪う」だけの存在だったんだよね。
だから、僕は君の「ひとり」ではなくなった。


何だかんだいって、僕は君の「言いつけ」を守る男で、
いま、精一杯、違う人を見ようとしてる。

でも、本当に見てるだけなんだ。


君より、きれいな人はいくらでもいる。
君より、かわいい人もいくらでもいる。
君より、頭のいい人もいくらでもいる。
君より、僕の仕事や立場を理解してくれる人もいくらでもいる。

けれど、そういう人が、僕にとって次の「ひとり」になるのだろうか。
(むろん、相手の意思が第一だけど)僕には、まだそう思えない。

僕の「ひとり」は、まだ君だ。
指定席には、相変わらず君が座り続けている。


僕も君も、けっきょく「ひとり」しか見られない人間だと思う。

その「ひとり」がお互いである必要はないけれど、
君に新しい「ひとり」ができれば、君はまたその人を見続けるだろう。

たぶん、そういう愛し方しか、僕らはできない。
でも、それは決して、言うほど悪いものではないと僕は思う。


「ひとり」は奪うだけのものではない。

僕は、「ひとり」に色々なものをもらったよ。
それは、僕自身が一人になったとき、このなかに生きている。

奪われるだけなら、あんなに一緒にいられなかった。
次の「ひとり」ができたときに、そのことだけは思い出してよ。
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by aru-henshusha | 2006-12-17 17:14 | 不定期なヒトリゴト。
「好きだから、一緒にいたい」と僕は言い、
「好きだけど、一緒にはいられない」と君は言った。

話をまとめれば、結局は、それだけのこと。


僕は、今日また一つ歳をとったのに、あいかわらず幼くて単純で。
好きだから」の言葉に甘えていた。

僕が君を好きで、君が僕を好きならば、それだけでうまくいくと思っていた。


でも、もう駄目だったんだね。

君の中で、日に日に大きくなっていく「好きだけど……」の気持ちを、
僕は打ち消すことができなかった。

君から見れば、打ち消す努力が足りなかったと言われても仕方がない。


好きだから、まだまだ一緒にいたかったけど、
好きだから、もう一緒にいてはいけない。

どっちの「好きだから」も本心だから、本当に困る。


君にも早く、「好きだから」と言える人が見つかるといい。

好きだけど、応援するし、僕にできることは、
もうそれぐらいしか残っていないから。
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by aru-henshusha | 2006-11-19 16:43 | 不定期なヒトリゴト。

飲み会などで初対面の同業者と話すとき、「共通の知人」がいると、いっきに楽になる。

「僕、御社の●●さんにはよく飲みに連れて行ってもらってるんですよ」
「<週刊**>の■■さん、こないだお会いしましたよ。いつもお忙しいみたいで……」

なんて、その知人をとっかかりにすれば、初対面どうしでもけっこうスムーズに話せるからだ。

でも、いつもこういう「やり口」でいると、ときに悩ましい場面に出会うことがある。
じつは先日も、二回続けてこういうことがあった。


その日僕は、ある出版社の男性と名刺交換をするさい、旧知のAさんの名前がつい口を出た。
「Aさん、ますますご活躍のようですね」といった僕に、名刺交換の相手は露骨に嫌な顔をした。

「ああ、Aね。外ではホープって言われてるんでしょう?」


そのあと、どのような言葉が彼の口からもれてきたか、ここには書かない。
彼はまるで、同僚であるAさんよりもオレのほうができるよと言いたそうに、僕に言葉を吐きつけた。


おなじ日の夜、僕はたまたま、違う会社の編集者と飲みに行った。
相手は、以前一度だけ会ったことのある、初対面同然の人だ。

酒が進むにつれて、僕はふとBさんの消息を尋ねた。

「最近、Bさん元気ですか? 以前はよく飲み会でお会いしたんですが……」

当然、そこからはBさんの話になる。
元気そうか、いまどんな仕事をしているのか、当たり障りのない話が続いたあと、ポツリと。

「私、Bさんとは正直、合わないんですよねぇ」

え、そうなんですか? と理由を聞く。
僕の知ってるBさんとは違う(好ましくない)一面を、初めて知った。


人には、いろいろな顔がある。

上司に見せる顔、同僚に見せる顔、後輩に見せる顔、取引先に見せる顔、社外の仲間に見せる顔……。
会社関係だけを考えてもたくさんの顔があり、実際には、さらに色々な感情、しがらみがからみつく。

Aさんも、Bさんも、僕に見せてくれるのは「社外の顔」だ。
それが、どれだけ「社内の顔」と重なるのか、異なるのかは想像もつかない。


僕が知ってるあの人と、あなたが知ってるあの人は、けっこう違う顔をしているらしい。
僕としても、そこまで言われれば、「そういうことを言う人もいる」ぐらいの認識はしておきたい。

だけど、僕が知ってるあの人も、あの人も、僕にはとてもいい人なんだよね。

それが、たとえ外部へのポーズに過ぎないとしても、僕に見えるのは、その顔だけなんだよ。
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by aru-henshusha | 2006-08-27 14:13 | 不定期なヒトリゴト。
よく、「話せばわかる」という人がいる。

だけど、あれは本当は「話せばわかる(場合もある)
ということだと僕は理解している。

お互いの意見がぶつかろうと、5分も話せばわかり合える人もいれば、
どんなに言葉を尽くしても、絶対にわかり合えないときがある。

なぜ、そうなのか?

それを考えるには、まず「話せばわかるケース」を
分類・定義してみればよいのではなかろうか。



・話せばわかるケース1
「お互いの目的あるいは背景が一致している場合」

職業柄、本のデザインを例にして、話を進めよう。

たとえば、ある本のカバーデザインでAさんとBさんの意見がぶつかったとする。

俺はX案がいい、私はY案のほうがいい。

こう意見が分かれたとき、かりに、
「20代女性向けにアピールするようなデザインにする」
という目的が二人の間で一致していれば、話し合いの余地はある。

もちろん、何が20代女性向けなのかは各々思うところが違うだろうが、
それでもその目標に向けてお互いの意見を調整して、
前に進める可能性は高いだろう。


・話せばわかるケース2

「お互いの落としどころ、あるいは譲りどころがかみ合う場合」

やはり、本のカバーデザインの例で説明する。

Aさんは、緑色のカバーに明朝体のタイトルのデザインがいいと言う。
Bさんは、黄色のカバーにゴチック体のタイトルが一番だと言う。

だがこのとき、二人に譲れるところはないだろうか?

かりにAさんが、カバーの色は譲れないけど書体にこだわりがなく、
Bさんが書体のデザインはこれで行きたいが、カバーの色は柔軟に考えるとしたら。

お察しのとおり、「緑色のカバーにゴチック体のタイトル」でいけば話は収まる。
(実際にはこんな単純には決まらないよ、念のため)


まあ、上の例が適当かどうかはわからないし、
これ以外のケースでも「話せばわかる」ときはあるだろう。

とはいえ、やはり何らかの条件が整ったときこそ、
「話せばわかる」の効力は発揮される
のではなかろうか?

もしも、お互いの目的や背景がズレており、
なおかつ自説をすべて譲れない人同士がぶつかれば、
「話せばわかる」の境地に達するのはかなり困難だろう。


話し合いは万能ではない、と僕は思う。
ただし、それは話し合いの価値を否定することを意味しない。

自分は納得しかねるけど、そういう考え方もある、
と受け止めるのも、考え方の幅を広げる際には必要だ。

だからといって、いつまでも不毛な話し合いを続けるほどの余裕は、僕にはない。
わかり合えなくてもいいからいつまでも話したいと思える相手など、人生にそうはいない。
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by aru-henshusha | 2006-08-24 12:19 | 不定期なヒトリゴト。
べつに記事に文句つけようというわけじゃないけど、個人的に違和感を感じたので。

夢語りあう小中生は4割未満 希薄な友達関係(イザ!)
「自分の夢や将来について友達に話すことはしない」のは小学生女子で3人に2人、小学生男子と中学生では4人に3人にのぼることが、民間の教育シンクタンク「麻布台学校教育研究所」(東京・原崎茂所長)が行った意識調査で明らかになった。お互いに深入りせず、当たり障りのない仲を維持する傾向がうかがえ、同研究所は「友達関係の希薄さが夢を口にしない一因」と分析している。
(中略)
同研究所の原崎茂所長の話「夢を描かないのか、夢を語る深い友達がいないのか、この調査では判然としないが、夢を話さない子供がこれほど多いとは意外だった。子供たちの人間関係を築く力が減退しているとの指摘はこれまでの公的調査にも表れている。集団での自分の位置づけや連帯感を味わう実感に乏しい、人間関係の希薄さが夢について子供たちが口を閉ざす一因だろう
自分の子供時代を思い返すと、友達と夢を語り合った記憶がない。
それこそ、お前の友達関係が希薄だったんだと言われれば、そのとおりかもしれないけど。


でも、子供にとって「夢を語り合う」のは、それほど普通のことなのだろうか?

学校の帰り道や部活終わりでダベってるときに、

「オレ、じつは日本一のサッカー選手になる夢があるんだ」
「私は大学卒業したら、ぜったい小学校の先生になるの!」

なんてポジティブなヴァイブス(何じゃそりゃ)あふれた会話をすることが、
子供に求められる姿なのだろうか?


自分の話に戻せば、僕は小学校のころ、ひそかに描いていた夢らしきものがあって、
いまでもその延長線上の夢は見続けている。

でも、そういう夢をもっているなんて、ほとんどの人には教えていない。


世の中には、自分の夢を手帳に書いたり、日々仲間と語り合ったりして、
オープンなかたちで夢に邁進している人たちがいる。
それはそれで1つのカッコよさだと思うけど、残念ながら、僕はそういうタイプじゃない。

自分には、たしかに夢がある。

でも、その夢は誰かに大声でアピったりするもんじゃなくて、
ゆっくりゆっくり、でも着実に育てていければいいものだと僕は思う。


夢を語り合わない小中学生のなかにも、ひそかに夢をもっている子供はいるはずだ。

彼らがどれくらい少数派かはわからないけれど、そういう子供が大人になって、夢をかなえて、

「じつは、これが子供のころからの夢だったんですよ」

と照れくさそうに言うときに、僕は笑って祝福できる人間でありたい。


夢を語り合わなくても、夢をもっているだけでいい。

夢をもっていなくても、夢をかなえるたくさんの可能性があるだけでも、
子供ってのは素敵な存在だと思う。



それにしても、このシンクタンクの所長は昔どんな夢を語り合って、
それははたしてかなったんだろうか?

そちらのほうが、調査結果より気になった。
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by aru-henshusha | 2006-08-15 19:23 | ランキング・アンケート
東京メトロ東西線で車両から煙、けが人なし(Sankei Web)

上のアクシデントが起きたとき、僕は偶然にも、東西線の九段下駅のホームで、中野方面への電車を待っていた。

このとき、駅員が最初にしたアナウンスは、

「門前仲町で車両故障が起きたため、九段下―中野間で折り返し運転が行なわれる予定です」

といったものだった。


このアナウンス、現場で聞くと、正直、よく理解できなかった。

僕および、ほかの客が知りたいのは、

自分が乗るべき電車がいつ来るのか、それに乗るにはこのまま待っていればよいのか

という一点のみである。

しかし、このアナウンスでは、それに対する情報がほとんどない(ように僕や客の大部分には思えた)。


「折り返し運転」というからには、多分、反対方向(葛西方面)に進む電車が九段下で折り返すということなのだろう。
ならば、その電車に乗るには、自分たちは反対側のホームに行くべきなのか?

いや、でも、もしそうだったらその旨のアナウンスがあるだろう。
そもそも、「折り返し運転が行なわれる予定」というぐらいだから、もう少し待つなり、駅員に詳しく事情を聞くなりしてみよう。


こんなことを考えているうちに、反対側のホームに電車が来た。

特にアナウンスもなかったから、あれはそのまま葛西の方へ向かうのだろう。
あちら側の人は電車に乗れていいなぁと、僕は単純に思っていた。

ところが、いざ電車が動き出す寸前に、この電車は中野行きです、とアナウンスが告げたのだ。
僕やほかの客は、向かい側のホームを唖然として見つめていた。
(いっぽう、この事実に気づかなかった客も少なからずいたようだ)


僕は数人の客とともに窓口に向かい、駅員に事情を聞く。
だが、この時点では駅員自体が、事情を飲み込めていなかった。

「え、向かい側から出たんですか?」

と驚く駅員。あわててどこかに電話をかけて、ぐずぐずと話し込んでいる。


このころになると、客の中には興奮しだす者もいて、「一体どうなってんだ!」と駅員にキレるわ物を投げるわで、イヤ~なムード。

いっぽう、年をとった駅員は、

「さっき、お客さんに怒られてさ~、ねぇ、(中野方面行き電車は)そっちから出んの?」
「こっちだって、どうなってるのかわからないんですよ~」

と、事態を解明しようとしつつも、緊急さは感じられない。


そうこうしているうちに、また向かい側のホームに電車が来た。

これが中野方面行きへの電車かとの問いにろくに答えられない駅員を尻目に、僕と数人の客は、反対側ホームへの連絡通路に駆け込んだ。

けっきょく、それは中野方面行きで、とりあえず僕らは一安心。

しかし、こちら側のホームに中野方面行き電車が来たというアナウンスはきちんとされず、自力で気づいて「駆け込みアウト」になった客が何人もいた。


いやはや、状況説明に行数を費やしすぎてしまったが、あの場で感じたことを手短かに書こう。

べつに客の大半は、アクシデントが起きたことを怒っているわけではない。
車両故障というものがどれくらいの確率で起きるのかは知らないが、毎日営業していたら、そういうことだって起きるだろう。

だけど、あの応対だけはいただけない。

いつまでたっても、正確な情報が、一般客に理解できるようなかたちで広まらない。
利用者としては、それほど腹立たしいことはない。

駅員の間でも情報が錯綜したのかもしれないが、「いち早く、正確な情報を、わかりやすくお届けするため頑張っています」という態度すら見られないのでは、怒る客だって出るだろう。
(だからといって、キレたり、物を投げつけたりしてもいいわけではないが)


あのとき、東西線九段下の駅員には「早さ・正確さ・わかりやすさ」が足りなかった。
もっと言えば、その三点が大事であるという認識さえも、僕には見受けられなかった。

あるのは、「何で俺が勤務してるときに、こんなことが起きるんだよ~」という面倒な表情だけ。

でも、あのときホームにいた客の誰もが、同じようなことを思っていたのは忘れないで頂きたい。
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by aru-henshusha | 2006-07-30 20:42 | 不定期なヒトリゴト。