書評とは、「読み手のストリップ」である。
2008年 11月 16日
その中でドキッとしたやりとりがこれ。
豊崎 アマゾンのレビューはどうですか?今年の頭から「献本」というコーナーまで設けて、けっこうな頻度で書評(みたいなもの)をやっている自分としては、この「怖さ」は常に心の片隅にある。
朝倉 出ていれば読みますね。
豊崎 決して好意的なのばかりでもなかったりしますよね。
朝倉 ええ。それはネットのレビュー全体がそうですけれども。書いている人はどこまで意識しているんだろうと思いますね。自分の「読み」や表現のレベルをだれでも読める場所にさらしているわけでしょう。
豊崎 よくあんな怖いことを原稿料ももらわずにできるなと、私も思います。雑誌のライターをやっていて救われているのは、1カ月もあったらこの世から消えちゃうからですよ。ブログでレビューを書いている人たちは、自分の文章がずっと残って検索されていくことの怖さを知っているのかな。
そもそも、僕自身は編集者として、その本のよいところも悪いところも、著者と担当編集者が一番知っている(はずだ)と思っている。
だからこそ、著者や編集者から送られた本に、ここがよいとか悪いとかを僕が言うのはとても勇気がいるし、その「読み」が的外れでないだろうかという不安もあれば、その本の特徴を自分の稚拙な文章で表現できるだろうかという心配もある。
言うなれば、書評という行為は、「その本を読んだ自分が丸裸になること」だ。
持ち前の厚顔で、毎回思い切りよく脱いではいるけれど、裸の自分をさらすのに恥を覚えなくなったわけではない。
それでも脱ぎ続けるのには、多分いろいろな理由がある。
ひとつだけ月並みな言い方をすれば、「ありのままの自分を見せられる場所がほしい」ということだろう。
前にも書いたが、「自分がその本を読んで、そのときに感じたことを、ありのままに書く」というのが、書評をする際に、僕が自分に課した唯一のルールである。
人様に見せられるような体も精神も持ち合わせていない僕だけど、ありのままの自分を、飾ることなく表現できる場所がほしいのだ。
いまはまだ、怖さよりも開放感のほうが勝っている。