『容疑者xの献身』と、純愛と、残酷さについて。
2006年 01月 30日

日曜日もこんな時間までゲラと格闘とは、われながら因果な商売である。
さて、忙しい忙しいといいながら、ここ数日暇を見ては読み続け、やっと読み終えた本がある。
それが、さきごろ直木賞を受賞した、東野圭吾の『容疑者Xの献身』だ。
結論から言えば、とても面白かったし、少し泣けた。
この本は、ミステリーという範疇で紹介されているけれど、実際には恋愛、いや純愛小説であるといってもいい。
「容疑者x」がいかに純粋に人を愛し、その人の危機のために知恵と勇気を振り絞り、人間としての一線を越えるまでに至ったかという記録が、ある殺人事件の経過と重なっただけである。
直木賞の選考においては、<そのトリックの持つ残酷さが、ヒューマニズムを描くべき直木賞にふさわしいかどうかで、「非常に激しい議論になった」>というが、純粋過ぎる愛(あるいは純粋すぎるすべての感情)が、時にもっとも残酷な結果を招くというのはよくあることだ。
本作品は、ベタな人道主義(ヒューマニズム)は描けなかったかもしれないが、より深い人間の真理をとらえていることだけは間違いない。
(そもそも、直木賞=ヒューマニズムって、誰が言い出したのかね)
それはともかく、この作品の本質を一言で言いつくしている言葉を、作品の中から抜き出そう。
曰く、
「人間がこれほど他人を愛することができるものなのか」
こういう愛こそ、本当の愛というのかもしれない。
だけど、それが本当の愛だとしたら、この世にはそんなものはないのだろうけれど。
(だからこそ、この小説が書かれるべきだったのだ)
蛇足ながら、17世紀の貴族、ラ・ロシュフコー曰く、
「本当の恋は幽霊と同じで、誰もがその話をするが見た人はほとんどいない。」
参考ページ:自著を語る
追記:話題になっているトリックですが、作品の各所にヒントが散りばめられているので、途中で気づく人もけっこういるかと思います。
むしろ、そのトリックに気づいてからが、この作品の本当の醍醐味を味わえながら読めるかと。