守るために「死ぬ」よりも、守るために「生きる」ことを選びたい。(ヒトリゴト42)
2006年 07月 05日
映画のネタバレは避けられませんので、同映画を見る予定の方、見るかもしれないという方は、極力スルーしていただいたほうがいいと思います。
今日、映画「日本沈没」の試写会に行った。
先ほど見てきたばかりだし、感想はいろいろあるけれど、一つだけ、自分の中に強く残った問いがある。
それは、人を守るために、自分の命を捨てられるかということだ。
映画の終盤、草なぎ(字が出ない)演じる小野寺という潜水艇のパイロットが、愛する人を、ひいては日本を守るために、ある行動に出る。
その行動は、彼の「死」が前提となった行動だ。
行動の結果、愛する人が守られようが守られまいが、どちらにしても彼は死ぬのである。
話がそういう展開になったとき、僕はこの映画を見続けることが苦痛で仕方なかった。
おいおい、けっきょく「死ぬ」のかよ。
「生きる」という選択肢は、万に一つもないのかよ。
そう思うと、僕はこの映画も草なぎの熱演も、何もかも嫌になった。
こういうことを言うと、僕を非難する人もいるだろう。
愛する人(あるいは国)を守るために、一人の人間が命をかける。
それは尊いことである、美しきことである、感動的なことであると。
なるほど、そう思う人もいるだろうし、そう思うことが悪いと言いたいわけではない。
でも、そう思う人がどんなに多かろうと、僕はそういう考えが好きではない。
それが、どんなにカッコよく見えようとも、人を守るために「死ぬ」ということを、僕は積極的に支持したくはない。
どんなシチュエーションであろうとも、僕はいつでも「生きる」ことを考える。
たとえ僕が映画の小野寺パイロットのような境遇におかれても、僕はどうにかして「生きる」方法を探すと思う。
べつに、カッコ悪くてもいい。自分勝手と言われてもいい。他人に卑怯と思われてもいい。
自分と、自分の愛する人が、ともに生き残る方法を考える。
そして、生きて、生きて、それから先も、ずっとその人のことを守っていきたいと切望するだろう。
僕にとって「守る」とはそれだけ永く、泥臭い行為である。
物語を終わらすにあたり、主人公が死ねば涙の一つも出るだろう。
あなたは私たちのことを命がけで守ってくれた、ありがとう。
私たちはあなたのぶんまで生きていきます、としめれば一応の格好はつくだろう。
だけど、僕らの人生は、そこでエンドロールが流れるわけじゃない。
残された人たちの人生は、まだまだずっと続いていく。
こんなふうに考える僕は少数派かもしれないけれど、それでもいい。
僕はいつでも、しぶとく、いやらしく生きていく。
死んだらそこで終わりである。死んだらもう君を守れない。
そんな話を、前にもたしか一度だけ、君にしたことがあった。
それを思い出したから、僕はこんなに熱くなってるのかもしれない。