「殺す痛み」を引き受ける前に、「生かす苦しみ」を背負いなさい。
2006年 08月 20日
作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る
(痛いニュース(ノ∀`))
飼い猫の避妊手術はしないのに、「社会に対する責任」を守るため、生まれてきた子猫は容赦なく殺すという、このオバサン。
(ああ、たしか、作家さんなんでしたっけ)
その矛盾、本末転倒ぶりはリンク先で散々指摘されていて、僕が付け加える点はほとんどない。
ただし、この文章については、どうしても一言いっておきたい。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。このオバサンが引き受けている、「殺しの痛み、悲しみ」って、一体どれほどのものなんだろう?
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)
もしも、一匹子猫を殺すたびに、自分の愛する人をこの手にかけるような痛みと悲しみを感じるのであれば、「殺さなくてもすむ方法」を精一杯考えるのが筋じゃなかろうか?
なのに、このオバサンは、バカの一つ覚えみたいに、子猫が生まれるたびに崖に放り投げている。
はっきり言って、この人の言葉って「ウソくさい」んだよ。
本当に「殺す痛み」を引き受けてるの?
実際は、殺す行為に「慣れ切って」るんじゃないの?
それとも、毎回毎回、泣きながら子猫を殺し、その行為の罪深さを思って、日夜胸を痛めているのかね。
だとしたら、それはそれで、とてつもなく「学習能力」のない人だと思うけど。
たしかに、去勢していない親猫から子猫が生まれるたびに、一匹一匹きちんと育てるのは、本当に大変なことなのだろう。
だけど、そうやって「生かす苦しみ」を背負いながら、一匹一匹の「生」を慈しむ人間のほうが、このオバサンよりも、よっぽど「動物の生」を尊重している。
な ぁ に が 「 殺 す 痛 み 」 だ 。
「生かす苦しみ」を忌避した人間が、「安い言葉」をつかって、生を語るんじゃない。