『遺品整理屋は見た!』を読んで、「母の死」について考えてみた。
2006年 09月 28日
なんでも、現実ブログという人気ブログを書籍化したものらしい。
僕は正直、ブログの書籍化に多大な期待を抱いている者ではない。
どんな人気ブログであろうと、「本というイレモノ」にハマるかどうかは別問題である。
「これだったら、ネットでただで読めばいいや」と思えるものも多い。
だが、この一冊は少し違った。
この本の中には「遺品整理屋」である著者が実際に遭遇した、
数々の亡骸の記述がある。
いちばん印象に残ったのは、「溶けてしまった遺体」の話。
孤独死なのか、夏に一ヶ月も放置されていたこの遺体は、「茶褐色の液体」にかわりはて、
液状化したそれは布団の下にまで染み付いていたという。
こんな話のあとに書くのもなんだが、僕はこの記述を読んで、
ふと「母の死」について考えた。
僕の母は、僕と同じく、都内で一人暮らしをしている。
電車を使えば3、40分の距離。でも、その距離がなかなか遠い。
母からはよく手紙がとどく。僕は筆まめではないので、たまに電話で返事をする。
電話で話す彼女は元気だ。でも、本当に元気なのか、僕にはわからない。
社会人になって家を出て、実家に戻る機会は減った。
昔は(イヤでも)毎日のようにあわせてた顔だが、いまは二月に一度見ればいいほうだ。
この本の帯コピーには、
「明日――あなたの持ち物が遺品になるかもしれない!」
と書いてある。
でも、同時にこうも言えないだろうか?
明日――あなたの大切な人の持ち物が遺品になるかもしれない、と。
人は死ぬ。必ず死ぬ。
僕もいつかは死ぬし、母も当然のことながら死ぬ。
それは防ぎようがないことだ。
しかし、少なくとも、東京の片隅の、あの無機質なマンションの一室で、
母が「液状化」するようなことは、絶対に御免である。
昔の僕は、あの人といることが窮屈で窮屈で仕方なくて、家を出た。
けれど、いまの僕には、当時の僕とは違う感情が生まれている。
それは僕が大人になったからかもしれないし、
彼女の死が、少し身近になったからかもしれない。
全然、本の紹介ではなくなってしまったけど、ふとそんなことを考えた。
あなたが読めば、また違う人の死を思うかもしれない――