「本」にこだわる読者と、「本」にはこだわらない編集者。
2007年 04月 01日
ケータイ小説(光村推古書院、壬生浪士のひとりごと)
4月になれば小学校6年になる娘がケータイ小説にハマっている。
ケータイで読めるというのに、本が良いと言う。
眼が疲れないと言う。
ページをめくるのが楽しいと言う。
読み終えたときに、「私が読んだ本」という形が残るのが
良いと言う。
紙のニオイが良いという。
紙の触感が良いと言う。
(中略)
私の娘だけではなく、娘の複数の友人が
「ケータイ小説」という本を読んでると言う。
本は不滅だと感じた。
文章が好き、なのかな(未公認なんですぅ)
文章を読むための媒体が、紙でなければいけない必要を、本でなければいけない理由を、自分は見つけられない。「未公認なんですぅ」の、あまろ~ねサンが言うように、「文章」の入れ物は「本」だけではありません。
誰かの文章を読んだり、それをいじったりすることはけっこう好きなので、いまの(なんちゃってとはいえ)「編集者」という肩書きを持った仕事も嫌いじゃないけど、それらの文章をどういう入れ物に入れて発表するかについては、こだわりはない。本でもいいし、ウェブでもBlogでもいい。
やっぱり自分は、本が好きなわけじゃなく、文章が、文字を読むことが、好きなんだろうな、きっと。
ネットでもいいし、それ以外の電子書籍という形もあるでしょう。
オーディオブックなんてものも「文章」がもとになっていることには、違いないでしょう。
でも、
だから、本にこだわらないのか?
それでも、本にこだわるのか?
と訊かれたら、僕は後者を選びます。
僕はやっぱり、「文章」も「本」も好きなので。
子供のころから、少なくとも僕の人生においては、「本」は必要だし、不滅の存在だったので。
「本」という入れ物が、今後も一定の地位を占めるのか、それともどんどん衰退していくのか、僕にはわかりません。
けれども、ケータイ小説をわざわざ「本」で読む、そんな(僕と同じく)本が好きな読者がいるうちは、僕はバカの一つ覚えで「本」を作っていると思います。