ライターの子供も、編集者の子供も、みんな「普通」の子供である。
2007年 07月 15日
(活字中毒R。)
昔、私のようなフリーライターの子どもは……、と渡辺さんに相談したら、「馬鹿、子どもにとっては自分の親が普通だ」と叱られた。
*『週刊アスキー・2007/7/17号」(アスキー)の「Scene2007」(文・神足裕司)より。
今までに何度もこのブログに書いていますが、僕の亡くなった親父もかつては編集者でした。
親父に直接聞いたわけではありませんが、彼ももしかしたら「編集者(であった)自分の息子」の行く末を案じていたのかもしれません。
親父が亡くなった後、数年たって、僕は彼と同じ職業につきました。
母親にはけっこう反対されたのですが、僕が頑固なのは昔から変わらないので、けっきょく自分で選んだ道を行くことにしました。
その後、著者や学校の後輩から、「あなたは、なぜ編集者になったのですか」と質問されることが何回かありました。
そう聞かれるたびに、僕は、「いやぁ、うちの父が編集者だったもので……。一番身近な仕事が<編集者>だったんですよ」と答えるようにしてきました。
ずいぶんテキトーな志望動機ですが、それだけが理由ではないにせよ、親父が編集者だったことが、僕に大きな影響を与えているのは間違いないでしょう。
言い換えれば、それは僕にとっての「普通」でした。
親父が編集者であったこと、彼の(仕事への熱心さやら何やらの)せいで家庭が壊れたこと、親父が本当はどんな人なのかもわからないまま何年も過ぎたこと、親父が生きている間にけっきょく数回しか会えなかったこと……
他の家の子供と比べたら少し変わっていただろうウチの事情も、僕にとっては、すべて「普通」でした。
何とまとめればいいのかわかりませんが、ようは子供の数だけ「普通」の親がいて、「普通」の家庭があるということなのでしょう。
でも、こんな「普通」のことが納得できるのにも、けっこう時間はかかりましたがね。