人生は短い。でも、思ってるほど、それは短くない。(ヒトリゴト58)
2007年 09月 18日
少し長くなるけど、その一部をここに紹介したい。
私が会社に勤めて月給を貰うようになったころ、そのとき私はまだ二十歳だったのですが、私の先生にあたる人と一緒に、ある会場に行くということがありました。僕はこの話が昔から、とても好きだった。特に太字で示した「先生(多分、この方を指している)」の言葉は、とても味わい深い言葉だと思ってきた。
駅で切符を買い、改札口を通ったときに、電車がプラットフォームにはいってくるのがわかりました。駈(か)けだせば、その電車に乗れるのです。すこし早く歩いたとしても乗れたと思います。周囲のひとたちは、みんな、あわてて駈けてゆきました。
しかし、先生は、ゆっくりと、いつもの歩調で歩いていました。私たちが階段を登りきってフォームに着いたとき、電車は扉(ドア)がしまって、発車するところでした。駅には、乗客は、先生と私と二人だけが残されたことになります。
先生は、私の気配や心持を察したようで、こんな意味のことを言いました。
「山口くん。人生というものは短いものだ。あっというまに年月が過ぎ去ってしまう。しかし、同時に、どうしてもあの電車に乗らなければならないほどに短くはないよ。……それに第一、みっともないじゃないか」
(『山口瞳「男性自身」傑作選 中年篇』などに収録)
でも、僕がこの話の「味」を本当の意味でわかるようになってきたのは、最近のことだろう。
かつての僕は、きっと「あわてて駈けて」いく、乗客のような人間だったはずだから。
自分で言うのもなんだけど、僕はいままでの人生で、あまりレールを外れたことがない。
ストレートで大学に進学し、4年で卒業。就職活動は手こずったが、何とか出版業界にもぐりこみ、途中で会社をかわりはしたものの、一貫して書籍編集のキャリアを積んできた。
自分の意思のみで決まったことではないけれど、その時その時で、「乗るべき電車」に滑り込んできたように思う。
けれど、近頃の僕は、少し違う。
ホームに来た「電車」に無理して駈け込まなくなった。
仕事のことでも、それ以外のことでも、ここ数年で何本かを見送ってきた。
中には、自分の人生において、大きな意味を持つ電車もあったと思う。
人から「切符」の用意までされたときもあった。
でも、乗り込まなかった。正確に言えば、乗り込めなかったときもあっただろう。
次の電車がなかなか来ないとき、あの電車に乗ればよかったのかも、と思うこともある。
だけど、それは意味のない感傷だ。
何より、あのときの僕には、乗らない理由も、乗れない理由も、存在した。
電車が満員だったわけでもなく、誰かに突き飛ばされたわけでもなく、自分の意思で、僕はホームにいた。
「少年」と呼ばれる時期をとっくに過ぎて、自分の残りの人生の短さを思うたびに、僕は「先生」の言葉を思い出す。
人生のダイヤグラムは読めないけど、それでも後何本かの電車は来るだろう。
だったら、自分が乗りたいと思ったときに、乗ればいい。
人生は短い。でも、思ってるほど、それは短くない。
大事なのは、まず「目的地」を決めること。
それが決まるまで、僕は、もう少しホームにいよう。