「正義」は怖い、何よりも。
2008年 03月 31日

何せ、タイトルからして、
『正義の正体』
だもの。
普段、そういう小難しいことをほとんど考えない僕としては、全然的外れなことを書いて、馬鹿にされないか心配になった。
そして、その心配は、キーボードをたたいている今も変わらない。
でも、僕は書く。
「外務省のラスプーチン」と「闇社会の守護神」
――ともに、一見「正義」とは対極のところへ行ってしまった人たちが語る「正義の正体」を目の当たりにした今だからこそ、僕は僕なりに、力不足を承知の上で、「正義の正体」を追ってみたい。
本書の中盤(109ページ~)に、元検事の田中森一が、「自分の正義」を貫いた話が出てくる。
ある収賄事件で、不動産会社の社長を取り調べている最中、社長の妻が末期癌で危篤状態になった。
社長の弁護人から「一時間でも拘留を執行停止にして、最期を看取らせてやってほしい」という申請を受けた田中は、それを受け容れた。
しかし、彼の上司は、当初それを認めなかった。
「社会で働いていれば親の死に目に会えない、奥さんの死に目に会えないことなんていっぱいある。それでもみんな我慢して納得してマジメに生活しているんだ。嫁さんが病気だからといっていちいち執行停止なんかしていられるか」この発言を受けて、田中はこう語っている。
上司の言うことが正義なのか。法律どおりやることが正義なのか。僕が一つだけ確信して言えるのは、当時も今もみんな法律というものに使われすぎてしまっているということ。雁字搦(がんじがら)めになっていると言ってもいい。検事は法の執行官なんだから、法律どおりにすべてのことを運べばたしかにそれで何の問題もないのかもしれない。しかし、それじゃ人としての血が少しも通わないし、誤解を恐れずに言うなら、面白みがないじゃない。うん、この言い方が一番しっくりくるな。僕は面白みがないと思うんだ。けっきょく、社長の拘留は執行停止になり、4時間ばかりの奥さんの見舞いを終えた社長は、そのあと今まで否定していた贈賄について、すべて話したという。
田中の上司の考え方は、法の観点から見ても、検察庁という組織から見ても、一つの「正義」なのだろう。
じゃあ、田中がしたことは「不義」か? あるいは「悪」か?
くさい言い方になるけれど、僕は、田中のしたことは「人としての正義」だと思った。
それは、人間として血の通った、「もう一つの正義」ではないか?
「正義」とは、ときに、人の数だけ存在するものだと僕は思う。
もちろん、国家や組織の秩序を守るためには、そういくつも「正義」があっては困るだろう。
だから、法律や各種のルールで「正義」は規定されている。
だけど、それをガチガチに運用し続けると、どこかで「窮屈」になるときが来ると思う。
田中の言う「面白み」がない世界は、「正義」というものに縛られた窮屈な世界にならざるを得ないはずだ。
同時に、「一つの正義」が横行する世の中では、それ以外の価値観が徹底的に切り捨てられる危険性もある。
僕が敬愛する書き手、山本夏彦氏の本に、こんな言葉があったのを思い出す。
善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。(『毒言毒語』134ページ)この「善良」は、そのまま「正義」に置き換えることもできるのではないだろうか?
なぜなら、特定の「正義」の名の下に動いている組織・人間ほど、ときに恐ろしく暴力的になるものだから。
「正義」は、ときに、人の情や判断力を麻痺させる。
その意味で、僕は「正義」を、何よりも怖いと思うことがある。
長々書いてきたけれど、冒頭で述べた心配は、今だ解消されてはいない。
僕なりに考えた「正義の正体」は、しょせん、僕だけの正義をもとに作り上げた虚像かもしれないし、何より、自分の考えが正しいと言い切る気も毛頭ない。
きっと、僕には僕の、あなたにはあなたの、「正義の正体」があるのだろう。
ただし、その正体を知りたい方は、今すぐ本書を読んだほうがいいことだけは、疑いようがない。