『凶暴両親』は、それこそ、もっと「凶暴」に書くべき本だったかもしれない。
2008年 06月 22日
ここで取り上げるのは、担当編集の方からいただいた、
『凶暴両親』
この本の感想、正直、書くのが難しいです。
別に悪い本だとは思わないんですよ。
いわゆる「モンスターペアレント」の実像に迫るため、各種の事件や関連図書を調べ、教育関係者への取材もしているし、わりと丁寧な作り方の「良書」だと思います。
しかし、その「優等生」っぷりが、かえって本としては「弱い」とか、「まわりくどい」印象を与えてしまうような気がします。
たとえば、本書の第1章では、映画の「誰も知らない」、2006年に起きた秋田連続児童殺害事件、その他の児童虐待事件、亀田史郎の『闘育論』とその極端な教育法などについて、30ページ以上がえんえん割かれています。
けれど、これらはあくまで親のネグレクトや過保護・過干渉の例であって、「モンスターペアレント」を語る「前フリ」に過ぎないのです。
ネグレクトや過保護・過干渉であれば「ヨソの家のお話」で済ませることだってできなくはなかった。ところが、彼ら、凶暴化した保護者が、人々の暮らす地域社会においても、自らの権利を声高に主張し始めた。もはや、一部の保護者の権利意識の肥大化は「ヨソの家のお話」では済まされない状況になっているというのだ。そう、モンスターペアレントのお話は、ここからようやく始まります。
その最たる例として取り上げられるのが「モンスターペアレント」だ。(同書41ページ)
モンスターペアレントについて語る前に、保護者がさまざまな意味で「凶暴化」していることを示そう、というのは編集者と著者の考える誠実さなのでしょう。
同業者として、その誠実さには頭が下がります。
しかし、一読者として本書を読んだとき、その誠実さは、かえって、まわりくどく感じました。
作り手の意図をある程度くんでいる(つもりの)僕がそう思うなら、書店で本書を手に取った人はその何倍もそう思うのではないかと思われます。
今流行のモンスターペアレントについて知りたい、と軽い気持ちでこの本を手に取り、店頭でパラパラと立ち読みする読者からしたら、40ページ近くも「本題」に入らない本書のつくりは、あまり歓迎されないのではいでしょうか?
あくまでセールス面だけを見て言いますが、僕はこの本はもっと「凶暴」に(というか「乱暴」に)書いたほうがよかったと思います。
話を周辺から丁寧に書き起こすより、もっと本題に単刀直入に切り込み、多少粗い構成であっても、「凶暴両親」によりフォーカスして書いたほうが、読者の欲求により応えるつくりになったはず。
むろん、そういうつくりを避けたからこそこういう本になったのでしょうが、それは手軽にトレンドをおさえることが第一目的になりつつある「新書」という媒体にそぐうものだったのかどうか、疑問が残ります。
「良書」であるからこそ、つくりしだいでもっと多くの読者に読まれるのではないかと思い、こういう感想になりました。関係者の方、ご容赦を。