『恋空』が「浜崎あゆみ的文体」で描かれている、「ケータイ小説的。」な理由。
2008年 08月 19日
読了はしているので、あとは一冊一冊、地道に紹介していきます……
『ケータイ小説的。』この本は、以前紹介した『自分探しが止まらない』の著者、速水さんからいただきました。
*参考
「自分」というのは、探すもの? 決めるもの? 作るもの?
僕がノロノロしている間に、弾さん、smoothさんといった(とくにビジネス書業界で)著名な書評ブログでも取り上げられ、ジャンルを超えた盛り上がりを見せています。
さて、この本でとくに秀逸だと思ったのは、ケータイ小説と浜崎あゆみの歌詞の共通点についての考察。
著者はその共通点を次の3つだとしています。
1 回想的モノローグ
2 固有名詞の欠如
3 情景描写の欠如
1の回想的モノローグとは、基本的に3人称で書かれているケータイ小説のなかで、急に挿入される1人称の回想のこと。
たとえば、『恋空』には、
あの幸せだった日々は嘘じゃないそう信じていたから。という回想的モノローグがあるのだとか。
でも、もう本当にダメだね。
もう本当に本当に二人はダメになっちゃったんだね。(上巻206ページ)
で、こういう表現・文体が、まさしく「あゆ」の歌詞に似ているんです。
実際、著者が例にあげていた、
季節の変わり目を告げる風が吹いての歌詞なんて、ケータイ小説の一節だと言われても、見分けがつかない気がします。
君を少し遠く感じる自分におびえたよ
ふたりまだ一緒にいた頃 真剣に恋して泣いたね
今よりキズつきやすくて でもきっと輝いていた(FRIEND)
では、「なぜケータイ小説と浜崎あゆみがつながる」のか?
その答は、本書をじっくり読んでいただき、見つけてもらったほうがよいでしょう。
本書には「ケータイ小説=浜崎あゆみ=?」という図式がなぜ成立するのかが、非常に丁寧な取材をもとに書かれています。
その答え合わせは、ぜひ本を読んで、していただきたいと思います。
ところで、ケータイ小説と「あゆの歌詞」の共通点である、「固有名詞の欠如」。
これによって、ケータイ小説の文章は総じて幼稚な感じを与えているように思うのですが、同時にこの文体的特徴には、次のようなメリットがあるようにも思えます。
それはすなわち、その本が「私たちの物語」だと感じられる作用があるということ。
たとえば、昔(ってすごい昔だな)、田中康夫氏が書いた『なんとなく、クリスタル』には(当時の)おしゃれなブランド名や、流行の遊び場の描写がふんだんにありました。
で、出版後だいぶ経ってから本を読んだ僕にとっては、主人公が女性であるからとか以前に、その世界観が自分とは遠すぎて(古すぎて)、全然、「自分たちの物語」として楽しめなかった覚えがあります。
一方で、地名も学校名も(意外にも)ブランド名もほとんど登場しないケータイ小説は、その「透明さ」ゆえに、いろいろな地域に住む、生活様式が違う女の子たちにも、「私たちの物語」として受け入れられる、それが多くの読者を生む秘密ではないのかなと。
とまあ、最後の考察はおまけみたいなもので、本格的にケータイ小説について考えたい方は、ぜひ本書をご覧ください。
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当ブログへの「献本ルール」を、ここらでハッキリ決めようと思います。
*なお、ケータイ小説関連本は、これとこれに続き3冊目なんですが、さすがにもうお腹イッパイな感じです…
偉そうですみませんが、献本される方は、どうかご配慮を。

