「普通の球児」である前に、彼らは「普通の高校生」だ。
2008年 08月 25日

本来、夏の甲子園が終わる前に紹介予定だったこの一冊。感想が遅れに遅れて申し訳ない。
だけど、この本ならばいつ読まれても、その価値が損なわれることはないと断言できる。
『ひゃくはち』
は、他のどの作品にも似ていない、すばらしい野球小説だ。
この小説には、三つの裏切りがある。
一つめは、主人公が補欠であること。
経験者とはいえ一般入試で神奈川の強豪校の野球部に入った主人公は、最初は練習にもついていけず、試合ではエラーもするし、サインも間違える。
センバツ甲子園前のメンバー発表では、他のエリート部員と違って当落線上にいる。
平凡な主人公がさまざまな苦難を乗り越え驚異的な成長を遂げる、という「奇跡」はこの本では起こらない。
二つめは、野球部員が「普通」の高校生であること。
タバコは吸うし酒も飲む。たまの休日には合コンもする。セックスもする。
高校球児がそんなことを、と眉をひそめる人もいるかもしれない。
でも、どれか一つぐらいは、僕らはみな高校生のときに体験したことではないか。
押し付けられた「普通」ではなく、等身大の「普通」の高校生活が、この本の中にはある。
三つめは、彼らの夏が、予想もつかない形で終わること。
ネタバレになるので、詳細はここには書かない。
けれど、主人公にも、他の部員にも、そして僕ら読者にとっても思いもよらない形で、彼らの夏は終わる。
その終わりがもたらす「痛み」は、コールド負けの比ではない。
もしも、「普通の球児」の小説を期待した読者には、これらの裏切りはたえがたいものかもしれない。
この本で描かれる球児たちは、まさに『ひゃくはち』にも余るような煩悩を胸に、野球と野球以外の高校生活を送っている。
そこには、口当たりのいい爽やかさも感動もない。
だけど、だからこそ、本書は「普通の高校生」の姿を生き生きと描いた、青春小説の傑作だと僕は思う。
甲子園のグラウンドでは大人びて見える彼らだって、高校球児である前に、普通の高校生だ。
僕らがときにはハメを外し、ときにはかっこ悪く過ごしてきた高校時代を、彼らもきっと生きている。
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