(以下は、聴き手との対談中、「感動」について語った手塚治虫の言葉)

感動するってことは、本人の性格にもよるし、雰囲気にもよるし、状況にもよるし、文体とか、いろんな要素が入っちまってると思う。一種条件反射のような所もあるし。だけどほんものの感動っていうのは、それがその後ずっと強迫観念のように心に残っていてね、それがふとした時に、それに刺激された行動に走った時そうだといえる長い時間が必要なんですね。
(『漫画の奥義 作り手からの漫画論』 272ページより)
見出しではあえて「本物の感動」という言葉を使いましたが、
僕自身は映画や本などで得られる「その場限りの感動」がニセモノだと言う気はありません。
モノをつくる人間としては、そういった「短期的感動」を呼び起こすのにも、
それなりの苦労がいるということはわかっているつもりですし。
ただ、同時に、モノづくりに携わる身としては、手塚治虫がいった「長期的感動」につながるようなモノを、一つでも二つでも、世に出せたらと思います。
たとえビジネス書という範疇でも、年間数冊は、そういった本が出ているでしょうしね……
この文読んでたら、ますます似てるなぁと思って。
広告クリエイターは時代をどうとらえているか(読売ADリポート)
谷山(雅計氏)
<前略>コンビニでは、新商品でも売れなかったら2週間で商品を入れ替えてしまいます。いくらいい広告をやっても2週間では効かない。みんなが広告に接する前に勝負が決まってしまう。商品やネーミング、パッケージなどをパッと手を出したくなるようにつくらないと、勝負にならない。それで、特にコンビニ商品に関しては、積極的に一からいっしょにやらせてほしいと言っているのです。これって、書店の棚前(あるいは新刊台)の状況とよく似ている気がします。
(ジャンルによっては、そうでない場合もあるでしょうが)
新聞広告とか、ネット書店での予約段階の盛り上がりとか、店頭でドカンと積むとか、
いくら「本の周辺」を盛り上げたところで、商品自体に力がなければ、
本当の盛り上がりにはつながらないですよねぇ……
「商品やネーミング、パッケージなどをパッと手を出したくなるようにつくる」
ビジネス書編集者として常に意識しているといいたいところですが、
それが実現できているかは別の話。精進、精進。
社の由来は志賀直哉の小説「小僧寿し本部」(夕刊フジBLOG)
「仙吉は神田の或る秤屋の店に奉公している」の一文で始まる志賀直哉の小説『小僧の神様』。主人公の仙吉は寿司屋に入って寿司を手にし、値段があまりに高価なのに気づいて立ち往生する。小説は、やがて篤志家が寿司に憧れる仙吉に寿司をたらふく食べさるという話になるのだが、「小僧寿し」という社名はこの小説に由来する。というわけで、「小説の神様」とも呼ばれた志賀直哉の作品に由来するんだとか。
これに対抗して、カボチャばかり売っている「武者小路実篤青果店」なんてあったら楽しいと思ったのですが、どうでしょう?
参考:実篤記念館HP ミュージアムショップ
あなたの星座は何位? 12星座検索数ランキング(Yahoo!検索ランキング)
1位さそり座
2位ふたご座
3位おとめ座
4位うお座
5位みずがめ座
6位いて座
7位しし座
8位てんびん座
9位かに座
10位おうし座
11位やぎ座
12位おひつじ座
僕も含めてさそり座の方々、そんなに自分のこと調べてます?
あと、一つ気になったのは、これがランキングを押し上げてたりしないですかねぇ……
そのときは「さそり座の女」でカウントされるのかなぁ。
「来年の事を言うと鬼が笑う」のはなぜ?(スナックハーモニー・厚木)
怖い鬼が笑う説ちなみに鬼に笑われようが構わん、という勢いでメールしていたのは、来年受け取る予定の原稿のことです。今年中に受け取れるのなら、それが一番いいんですがね……
鬼とは怖い物の代表と考えられます。
来年の事など誰も分からない、それを云々と語ると、その怖い鬼でも、
人間て馬鹿だなとあざ笑うという説。
鬼が寿命を知っている説
人の寿命を鬼が知っていて、自分の寿命も知らないのにあんな事言ってる
とあざ笑っているという説。
暦が作れない説
昔は、春分/秋分の日を正確に知ることが出来なかったので、来年の暦を
早い時期から作れなかった。今でも、遠い何十年も先は分からないらしい。
四年に一回の閏年だけで計算できないみたいです。
だから、来年の事を言うと暦も作れない人間が何を言っているのかと鬼が
あざ笑っているという説。
鬼の豆まき説
*長いのでリンク先で確認ください
鬼の歯折れ説
*長いのでリンク先で確認ください
<求めない-/すると/いまじゅうぶんに持っていると気づく>僕も、出版業界の片隅にいる人間だから、この『求めない』という本が売れに売れていることは知っていた。
<求めない-/すると/いま持っているものが/いきいきとしてくる>
<求めない-/すると/それでも案外/生きてゆけると知る>
書店に立ち寄ったら、平積みされた小さな本が目に留まった。どのページにも、こんな短い句が一つずつ。どれもが「求めない」で始まっている。シンプルで、何でもないような言葉ばかりだが、引き込まれてしまった。
タイトルも、ずばり『求めない』(小学館)。作者は、詩人の加島(かじま)祥造(しょうぞう)さんだ。
人間とは、求めてやまない存在である。求める心が大きなエネルギーにもなる。しかし、現代の私たちはあまりにも求めすぎているのではないか。欲望過多の時代と言っていいかもしれない。
豊かさを際限なく求めた結果、あふれかえったモノとゴミに私たちは窒息しかかっている。成長と進歩への飽くなき欲望は、自然を破壊し、地球を危機に陥れている。
快適と便利の果てしない追求に、人は逆に振り回されている。度を越した所有欲が引き起こす事件は、絶えることがない。私たちが抱える不安も、さまざまな「過ぎた欲望」と無縁ではあるまい。
(中略)
今の自分に満足し、受け入れる。それが本当に豊かな人間である。この二千年余り前の言葉を、時代に即して丁寧に翻訳してくれたのだろう。
うちの会社でも持っている人がいたから、貸してもらってパラパラ読んだりもした。
書かれていることについては、素直に、「なるほどね」と思う。
学生時代に『老子』も読んだし、「足るを知る」ことの大切さだって、少しはわかっているつもりだ。
けれど、明日から早速「求めない」精神で生きてくれといわれたら、僕は困る。
僕には、まだまだ「求めたい」ものがある。
べつに、物質的に満足していないわけではない。
一人暮らしの家は狭いし、冬のコートはもう一着ぐらいあってもいいし、
使っているパソコンの調子は悪いけど、我慢できないレベルではない。
でも、僕は自分自身には満足していない。
一番わかりやすい例は、仕事だろう。
僕は、今の自分が出している以上の「成果」を求めている。
そして「成果」を出せば、それに応じた「待遇」も、きっと求めるだろう。
求めた成果が出なければ僕は落ち込むだろうし、さらに強くそれを求めて汗水たらすはずだ。
はたから見れば、いや、本人だって、そういう生き方はけっこう疲れる。
今現在、会社に迷惑をかけるような仕事ぶりではないし、適当なところで、
自分にも周りにも「求めない」ようになれば、もっと楽ができるに違いない。
だけど、そういう「求めない」生き方は、もう少し後でもできる。
何しろ、「求めない」だもの。
そう思った瞬間から、もう完了。歩み(というより走りか)は、一気にとまる。
僕は自分が編集者として、あるいはモノを作る人間として、
自分がどれだけ向いてるとか、才能があるとかないとか、わからない。
昔はもっと自惚れていたけど、今は本当にわからない。
このまま、求めて、求めて、自分が求めたものとは全然遠い存在だったと気づいて、
いつか愕然とするような気がしないでもない。
でも、そうなったら、そうなったでいい。
そのとき、初めて「求めない」ようにすればいい。
今の僕は、まだまだ、もう少し求めたい。
求める先に何があるのか、見届けたい。
求めるのは欲望であると同時に、好奇心でもある。
オトナの対応としてはスルーが一番なんだろうけど、やっぱり言っておかないとキモチワルイので。


左(パクられたほう):御社のホームページをヤフー!・グーグルで上位表示させる技術
右(パクったほう):結局、営業に頼ってしまう御社が伸びない本当の理由
そりゃ、矢印の数は増えてるし、太さも違うし、タイトルの置き方も違うけどさ……
でも、同業者が見て、一瞬で「ネタ元」に気づくレベルのパクり方はどうかと思うわけ。
(それも、両方とも他社の本なのによ)
しかも、今回はタイトル中の「御社」という言葉までカブってる。
(まあ、これはもともと『御社の営業がダメな理由』を意識してるんだろうけど)
タイトルにしろカバーにしろ、先行書や類書を参考にしたりすることは(僕だって)少なくない。
けれど、どこまでパクるか、マネするか、意識するかの問題だと思うのだ。
その線引きは難しいけど、あえて一つの基準をあげるとするなら、こうなる。
つまり、もしも「ネタ元」の編集者やらデザイナーと会うことがあったとして、その人に自分が作った本を恥ずかしくなく出せるかどうかだ。
僕が右の本の編集者だとしたら、左の本の担当者やデザイナーの前で、自分が作った本を出すのは恥ずかしい。
いや、そう感じない人が作ったから、右のような本ができてしまったとは思うのだけど。
もっとも検索されていない山手線の駅はココだ!(Yahoo!検索ランキング)
1位鶯谷駅
2位西日暮里駅
3位田端駅
4位御徒町駅
5位巣鴨駅
6位新大久保駅
7位目白駅
8位駒込駅
9位代々木駅
10位大塚駅
僕自身、山手線に乗るのは池袋~渋谷間が主なので、ベスト(ワースト?)3の駅はほとんど利用したことがありません。
「じゃあ、13時に鶯谷の駅でね」なんて待ち合わせたこともないしなぁ。
そういう意味では、たしかに検索しないかも。
ただ、鶯谷という駅名自体のインパクトは強いので、「古今東西」をやったときには思い出すんですがね……
7話 担当編集者を変える(マンガの道)
担当の理想とする作品と私のマンガ観は大きくずれていた。たとえば、僕がAという著者に「ブログ」についての本の原稿をお願いしたとする。
担当は「ビジネスジャンプ」にそういう違う種類のマンガを、と思ってたのかもしれない。
だが、「ついていけません。私にはできません。すみません。」と正直に担当に言った。
担当はその後、副編集長に相談してくれて、ほかの担当に替わることになった。
私の知っているマンガ家で、やはり担当と相性が合わず、編集長に直談判して替えてもらった人もいる。(集英社の東大出の編集さんで、ものすごい頑固でけんかになったらしい。)
その後、最初の1章があがってきて、それが依頼した内容とはかけ離れていたとき、僕はその著者にもう一度当初の意図を伝え、修正をお願いするだろう。
そのとき、著者が「いや、俺はどうしてもこのままで行きたい」といって揉めたとして、「じゃあ、担当者を替えろ」「はい、替えます」という展開は、あまり考えられないような……
仮にそういうケースになったとしたら、お互い妥協できるところをとにかく探して、改めて仕事をするか、出版の話自体白紙になることが多いんじゃないだろうか?
(この場合、宙に浮いた企画・原稿を著者がよそで出すケースもある)
そもそも、会社だって企画者(担当編集者)の意図等に賛同した上で、企画にGOを出しているわけだし。
まあ、僕自身は、著者とそこまで意図・意見が食い違ったことはないし、たいていの人は大きな食い違いが生じないよう打ち合わせの段階で、かなりすり合わせをやってると思うのだけど。
(上の漫画家さんの場合、その初期段階から相性が悪かったのかもしれないが)
う~ん、書籍の場合でも、途中で担当編集者が替わったりするもんですかね?
(企画者の異動、多忙で他者に振ることはよくあるけれど……)
テレビ視聴記録12/5いや、そりゃデザイナーに修正をお願いすることはあっても、かってに原画(というか、カバーデザイン?)をいじったりはしないと思うんだが……
●テレ朝「相棒」
書籍の表紙の装丁を手掛けるイラストレーターが、表紙はオマケ程度にしか考えていない編集者に勝手に原画をいじられ激昂、編集者を撲殺する。化粧品とのコラボを前提にケータイ小説を出版し、映画化を進めていた作家は、その化粧品会社の悪行を糾弾する書籍を出そうとする編集者と対立するが、映画化発表の席で映画及びコラボを白紙撤回…結構面白い筋だったが視聴率はイマイチ。
*より詳しいあらすじはコチラ
(しかも、撲殺されちゃうのね……)
もう一つのエピソードも破天荒だし、この回、見てみたかったなぁ。