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ある編集者の気になる人・事・物を記録したブログ。ときおり業界の噂とグチも。


by aru-henshusha

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浅田次郎 ロングインタビュー 誰もが誇れる何かを持つ愚民思想からの劇的転換(R25.jp)
*引用部は2/3ページ
25歳の人に言っておきたいのはね、 “とにかくひとつのことをずっとやれ”ということ。人生はそれに尽きる。
(中略)
オジサンのような歳になるとわかるんだけど、どんなに才能のある人間でも、ひとつのことをやってきた人間には敵わない。多芸多才だと思っている者ほど、目移りがしていろんなことをやりたがる。でも、それがものになった試しはないんだよ。才能って不思議なものでね、ひとつのことをできるヤツは、実はいくつものことができるように作られてるの。たとえば運動神経はそうだね。野球部でエースで4番の人間は、サッカーやっても体操やってもうまいでしょ。勉強もそう。ミュージシャンで芝居ができるやつもそう。“俺は音楽も演技もできる”とか思うわけです。ところが“俺には芝居しかない”と思って愚直に進んできたヤツには、最終的には間違いなく敵わない。才能の有無の問題じゃないよ
この考え方には、正直、異論もあると思います(マルチに活躍している人はいっぱいいるぞ、とか)。
でも、僕みたいな不器用な人間には、励みになる言葉なんですよね。

もちろん、一つのことをやり続けるのも大変なことですし、それもまた「才能」の一種なのかもしれませんが……
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by aru-henshusha | 2007-11-20 01:12 | 商品・企業・仕事
これはこれは、とっても耳が痛いお話。

『オリジナリティがない』は、バカな編集者の常套句(活字中毒R。)
バカな編集者が連発するセリフに、

「オリジナリティがない」
「キャラが立っていない」

 というのがあります。

 このセリフが意味するところは、ひとつ。

その編集者は、オリジナリティがない、と感じた作品を批評するだけの脳みそを持っていない
 ということです。

 料理評論家はまずい料理を食べたときに「まずい」とは言いませんよね。どこがどう悪いのかきちんと指摘するはずです。
 小説も同じこと。
 オリジナリティがない、などと言うことは誰にでもできる批評です。キャラが立ってない、もしかり。
 幼稚園の感想文じゃねえんだ!って感じですね。
 ましてや編集者という職業は、小説を批評するだけでなく、その小説の良いところと悪いところがわかった上で、面白い作品になるよう、作家を導くのが仕事の一つでもあります。

 この2つのセリフを連発する編集者は、「あなたの作品をきちんとした売れる方向に導く力」はありません。訓練されたプロとは到底言いがたい。
「オリジナリティがない」「キャラが立ってない」
と連発する編集者とはおつきあいしないことをお勧めします。
ここでいう編集者はどうやら文芸の編集者のようですが、ビジネス書や漫画の編集者にも同じことがいえる(ケースもある)でしょう。

僕自身、著者の原稿やら企画書やらを見て、「オリジナリティがない(あるいは、尖りがない、ウリがない)」という感想を抱くことがあります。
けれど、それをそのまま伝えるだけでは、著者も困ると思うんですよね。

「自分の作品・プランがありきたりだということはわかった、じゃあ、どうすればいい?」

という疑問に対して、明確な答えとは言いませんが、そのヒントをある程度示せないと、たいていの場合、仕事が暗礁に乗り上げてしまうはず。

口で言うほど簡単ではありませんが、「なぜダメなのか、どうすればよくなるのか」を考える癖をつけるのが、いまさらながら編集の仕事の第一歩なのだと思います。
by aru-henshusha | 2007-11-20 01:01 | 本・出版
社員として誇りを感じられない業種は?(Business Media 誠)
社員であることに誇りを感じているか?――この質問に「あてはまる」と「ややあてはまる」を合わせた回答が最も多かった業種は、「団体・連合会・官公庁」(31.5%)であることが、ネットマイルの調査で分かった。次いで「食品・飲食系」(25.3%)、「電気・電子・機械系」(25.2%)という結果となった。一方、「あまりあてはまらない」と「全くあてはまらない」の回答が多かったのは、「マスコミ・広告・出版・印刷系」(63.7%)が最も多く、「運輸・鉄道、配送・物流」(43.6%)、「IT・通信・情報系」(42.2%)と続いた。
この調査、対象人数も少ないし、そもそも「マスコミ・広告・出版・印刷系」というくくりが大雑把すぎるので、どれだけ実態をとらえているかは怪しいところだ。

ただし、自分自身がかつて所属していた会社のことを考えると、「誇り」がもてないと答えた人の気持ちも、少しわかるような気がする。


たいていの仕事はそうだと思うけど、会社に入る前と入った後では「ギャップ」がある。
マスコミというカテゴリーに入る会社は、とりわけ、そのギャップが大きいのではないか?


これが新聞・雑誌記者だとまた違うだろうけど、書籍の編集者である自分が経験した例を一つだけ挙げると、本作りに関するギャップがある。

僕は新卒で、ある編集プロダクション(出版社の下請け的なもの)に入るまで、単純に、本というものは、いい原稿を元に時間をかけて作るものだというイメージがあった。

むろん、そういうやり方で、いわゆる良書をつくる会社もあるけれど、そういう会社ばかりではないし、そういう本作りを求められる「ジャンル」ばかりでもない。


僕が当時、よく担当していた「雑学」というジャンルは、(一部の例外をのぞき)今思えば非常に荒っぽい作り方をしていたと思う。

ライターさんが他の本や雑誌からひっぱってきたネタを寄せ集め、大急ぎで原稿を書き(トリビアの部分は生かし、その前後をリライトする)、編集者はスピード勝負でまとめあげる。

できた本は、当然ながら「どこかで聞いたような話」が多く、競合他社と似たような本ばかりができ、書店には長く置かれずに消えていく。

あのころ作った本を、僕は家族や友達に、自信を持ってすすめられなかった。
その会社の一員であることに誇りがあるかと訊かれたら、やはり「ノー」と言っただろう。


そういう会社・自分が嫌で、僕はビジネス書の版元に移った。
もっとも、ビジネス書にはビジネス書の「ギャップ」があって、それに悩むことは今でもある。

ただ、昔と違うのは、そんな中でも、工夫や努力しだいで、少しは「誇らしい仕事」ができるようになったように思う。


組織にいる以上、わりと好き勝手言っている僕だって、いろんな縛りの影響を受ける。

けれど、その縛りの中で最大限の成果を出したり、縛りを少しずつでも広げたり、縛りのゆるいところを見つけたりして、ちょっとずつギャップを埋めていける可能性はある。


今の会社の一員であることに、誇りをもっているとは言わない。
でも、自分しだいで、「誇りがもてる仕事」をするぐらいの自由はまだ残っている。
by aru-henshusha | 2007-11-13 02:31 | マスコミ全般
正直かなり眠いので、理路整然かつ長々とは書けそうにないのだけど、最近読んだ本で印象に残った言葉について少しふれておきたい。
私が将棋というひとつのことを続けることができたのは、何よりも将棋が好きだったという理由が大きい。「一番好きなことは仕事にしてはいけない」という見方もある。だが、私は思う。二番目に好きなことでは、トップにはなれない。ほかのどんなことよりもそれが好きでなけなれば、なにがなんでも「いちばん」になろうとは思えないだろうし、そのための創意工夫もなおざりになる。(谷川浩司『構想力』173ページ)
僕は谷川氏と違って業界のトップを狙えるような人間ではまずないだろうけど、それでも「一番好きなこと」を仕事にしたい。
いや、「一番好きなこと」でなければ続かない、と言ったほうが正しいか。


ビジネス書の編集者をしていると、自分とは異なる業界・職種の世界を垣間見ることがある。

IT、飲食、小売、住宅、PR会社、スポーツビジネス、講師業、士業、エトセトラ……
どんな仕事も、それぞれ、大変そうである。


もちろん、編集という仕事だって大変には違いない。
自分が好きな本にまつわる仕事だからこそ、理想と現実の板ばさみで悩むこともある。

けれど、好きだからこそ、僕はそういった辛さも我慢できる。
また本が作れるのなら、多少の苦労は仕方がないと思うことができる。

他の仕事でも同じ我慢ができるかと聞かれたら、少なくとも僕はできない。
好きでもない女を命がけで守れないように、好きでなもい仕事に、僕は自分をかけることができない。


これはあくまで僕の考え方だから、他の人の仕事観をとやかく言う気はない。
好きなことは趣味のままでという人、そもそも仕事に好き嫌いを持ち込まない人、色々いればいいと思う。


ただ、僕は僕で、編集という仕事とプライベートの切れ目もハッキリしない職についている今、もしもこの仕事が好きでなかったらと思うと、ゾッとすることがある。

好きだから頑張れる、好きだから続けてる。


小学生みたいに単純だけど、そのシンプルな愛情こそが、僕の編集者人生を支えてきたのだと、つくづく思う。
by aru-henshusha | 2007-11-02 03:41 | 商品・企業・仕事
「売れそう」と「おもしろそう」(未公認なんですぅ)
おもしろそうと思った企画が実際に「おもしろい本」になり、そのうえ「売れる本」にもなるのがいちばんだけど、そうそういつもうまくいくわけではない。

「おもしろい」と「売れる」の両方は難しいけど、どちらか片方ならいけそうなことはある。そのときに、「おもしろいけど、あまり売れなさそうな本」と「おもしろくないけど、売れそうな本」のどちらかを選んでつくれといわれたら、やはり自分は前者を選んでしまうだろう。
面白さの質を見抜けないと(編集者をやるのは)難しい
(ラノ漫―ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記―)
「面白い」ことは「商品価値がある」こととイコールではありません。消費者は無料のコンテンツには寛容ですが、有料だと人が変わったように厳しくなります。どんなに面白がってもらえても、買ってもらえないのでは意味がありません。

作家や編集者が「面白い」と思っても、数千人の読者が熱狂的に支持する「面白さ」でも、部数が4桁では単価が4~500円くらいのマンガ単行本だと採算が取れません。価格がものすごく高く設定できるなら話は別ですが、マンガ本に2000円とか5000円とか出してもいいという人は少ないでしょう。

以上のような現実をふまえると、軽々しく「面白ければなんでもいい」とは言えなくなります。出版不況の中、作家が出してくる面白さの質をしっかり見極めて取捨選択ができないと、編集者はつとまらないように思います。
ブックマークしていた記事の中に、ジャンルは違えども、編集者さん二人が似たようなことを語っている部分があった(ただし、スタンスは真逆?)。

いい機会なので、「面白い」と「売れる」について、自分の考えもメモしておきたい。


僕の場合、企画を考えるとき、「自分が面白がれる本なのか?」が第一にある。

自社・自分の状況によっては、「面白くないけど売れる(or売れそう)」な本を作れるのがプロではないかとも思うが、僕はその域に達していない。

自分が面白いと思えない本を全力では作れないし、ましてや他人(読者)に自信をもって薦めることもできない。

満足できる仕事ができないのが目に見えているので、僕は「面白い」要素がまったくない本は(よほどの事情がないかぎり)作らない。


では、自分が面白いと思ったものはどんどん本にしているかというと、そうでもない。

僕は、自分の中の「面白いフィルター」を通過した企画を、今度は同じく自分の中「売れるフィルター」に通している。
企画によっては、「商品として採算が取れないだろう」という理由で、ここでハネらねる。

それは、僕が商業出版の編集者だからと言えばそれまでだが、もう少しウェットな理由もある。

僕は、自分が本当に面白いと思った企画や著者には、本当に売れてほしい。
これは面白い、他にも面白がる人がいるはずだ、そう思った本が全然売れなかったことほど、悲しいことはない。

だから、出せば売れる(だろう)という確信が持てない限り(そういう情報・材料が集まらない限り)、その企画は進めない。
今は出版のタイミングではない、と思えば、寝かすなり違う切り口を考えたりする。

自分の中で、毎回、二段階の企画会議をやっているようなものだ。


上記の過程を経た企画は、(理論的には)「面白い」と「売れる」を満たす企画である。

もちろん、現実はそんなに甘くなくて、それらの絵空事を実現するには骨が折れる。
自分が思っていたほど面白い原稿があがってこなかったり、鉄板で売れると思っていた内容でコケることもある。

「売れる」についていえば、どんなに企画を精査しても、僕の場合、10冊中、2-3冊は明らかな失敗作になる。
初版どまりどころか、大量の返品に、クラクラしそうになるときもある。

悔しいけれど、そのあたりが自分の限界なのだろう。


また「面白い」と「売れる」は、場合によっては、反比例の関係になる。
「面白い」内容・本作りにこだわると読者が逃げたり、「売れる」ための本作りに徹したら、何の変哲もない本ができたりもする。

だからといって、そのどちらかを選べと言われても、僕は困る。
編集者である限り、面白くて、売れる本を作りたい。

二兎を追うのが困難なのは知っているけど、それでも二兎を追う方法を考え続けるのが、僕にとっての仕事である。
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by aru-henshusha | 2007-10-25 01:22 | 本・出版
時間がない。自分の時間がない。

ブログの更新具合を見ていただいてもわかると思うけれど、
いまの僕には、自分のために自由に使える時間がほとんどない。

こういう状態がつづくのは肉体的にも辛いのだけれど、
何より、精神衛生上よくない。

自分には、もっとやるべきことがあるのではないか、
という気持ちがわくと同時に、そんなことすら考えているのが時間の無駄、
と目の前のなんやかんやを片付けている自分がいる。

思考停止。忙しいとは、まさに心を亡くすことなのだなぁと、へんに納得がいく。

そんなときに、この言葉に出会った。ガツンとやられた。
長いけれど引用する。
「必ずこうしなければいけない!」というルールではありませんが、もしあなたが、いいコピーを書きたい、すばらしいアイデアをつくりたいと心の底から思っているのなら、ひとつだけお願いしたいことがあります。
明日から、あなたの毎日の生活のなかで、「なんかいいよね」という言葉を禁句にしてほしいのです。
あなたは、いい映画を見てドキドキしたり、いい音楽を聴いてホロッとしたり、いい小説を読んでジーンとしたりしたときに、しばしばこういう言葉を発してはいないでしょうか。
「なんかいいよね」「なんかステキだよね」「なんかカッコいいよね」と。
明日から、それをきっぱりとやめにしてほしいのです。そして、かわりにこう考えてみてください。
「なぜいいのか。これこれこうだからじゃないか」「なぜカッコいいのか。こういう工夫をしたからじゃないのか」と。
こういう思考を働かすことができなければ、あなたはけっして「モノのつくり手」になることはできません。
(『広告コピーってこう書くんだ!読本』16ページ
忙しい忙しいと言いながらも、この数週間、本を読み、映画を見、展覧会にも足を延ばした。
自分にとって、最低限の「心の栄養」だけは切らさずにいたつもりだ。

けれど、僕はどんなに面白い本に出合い、すばらしい絵画を前にしても、
「なんかいいよね」ぐらいの感想で済ませてきた気がする。

その作品がなぜいいのかを掘り下げることはせず、ただ「いいもの」と触れ合った、
その事実だけで満足してしまっていたように思う。


もちろん、出合うもの、出合うもののよさ(あるいは悪さ)に対して、
「なぜ?」を発し続けるのは大変なことだろう。

「なんかいいよね」の一言で済ませられたら、これほど楽なことはない。

でも、何でもかんでも「なんかいいよね」としか言えない人間には、
「作り手の方程式」はわからない。


自分がモノを作るとき、偶然「なんかいい」状態を再現できたとしても、
そんな奇跡は何度も続かない。すなわち、プロの作り手になるのは難しい。

だから、「なんかいいよね」を禁止せよと、この本は言っているのだろう。


このブログを書くとき、僕はできるだけ手間をかけないようにしている。

ブログは僕の仕事ではないし、大事な趣味の一つではあるけれど、
なるべく時間をかけたくない(いや、かけられない)のが本音である。

それでも、ときおり、どうしても手間隙かけて伝えたいことが出てくる。
「なんかいい」とか「なんかやだ」で済ませられない思いがある。

ひときわ忙しいときの僕は、そういう思いを、我ながら鬱陶しくも感じるのだけど、
これからは少し心を入れ替えたい。


この本は「なんかいい」から、紹介しているのではない。

忙しさにかまけて、作り手としての大事な思いを忘れかけていた僕に渇を入れてくれた、
「とてもいい」本だから、誰に頼まれたわけでもなく、紹介している。

いま作り手である人にとっても、これから作り手を目指す人にとっても、
きっと必要な本である。


こんなふうに、「なぜいいか」を考える時間を、少しずつでいいから確保していきたい。
by aru-henshusha | 2007-10-09 01:33 | 商品・企業・仕事
以前、あなたたち著者は、アマゾンなんか見ないほうがいい。という記事を書きましたが、どんなに気をつけていても、自分の作品を酷評される場面に遭遇する著者の方もいるかもしれません。

そんな場合は、下記の言葉を参考にすればよいかと。

【HR】 評価と部数の関係(MORI LOG ACADEMY)
 作家どうしで話していることの1つ。読者の評価点が集計されているサイトがあるが、その評価点と、本の発行部数の関係を調べると、両者には明らかに負の相関がある。「負の相関」という言葉がわからない人が多いと思うが、ようするに、「比例している」の反対だ。すなわち、評価点が高い作品ほど、売れる部数が少ない、という結果になる。
 これは、読者の評価が間違っている、ということでは(たぶん)ない。何故こうなるのかというと、なにかの原因で沢山売れてしまった本は、それだけ広い範囲の人が読むわけで、そうすると、作品と合わない人間の手に渡る可能性がそれだけ高くなる。一方、話題にならない少部数の本では、作家に対して好意的な読者の割合が多くなり、評価点が高くなる傾向にある。
(中略)
 新人作家に1つアドバイスがある。もし、誰かに作品をぼろくそに言われたら、「こんな人のところにまで本が届いたのだ。売れているのだな」と喜ぶのがよろしい。
もちろん、酷評の主を今度はギャフンと言わせてやると思って、より創作に励むのも一つの選択かもしれませんがね……
(ただし、実際にはどんなに頑張っても、どこからか批判は出るのではないかと)
by aru-henshusha | 2007-09-26 02:12 | 本・出版
耳が痛いけど、耳を貸すべきお話。

2007-09-09
キャリアステップのコンサルタントの偉い先生によると、仕事にはCAN(自分が出来る仕事)、MUST(やらなきゃならない仕事)、WILL(自分がやりたい仕事)の3つがあって、その3つのバランスによって、個人個人の仕事の充実度がかわってくるらしい。
(中略)
WILLの円が小さくてMUSTが大きい人は「仕事をやらされてる」感の強い人。CANが小さいのにMUSTが大きい人は「自分の実力以上の仕事が負担になってる」人。WILLが大きく、MUSTとCANがある程度重なっている人が「仕事が充実している」人になるわけですが(以下略)
こういう用語で考えたことはなかったけど、昔から同じようなことでよく悩んできた。

ずっと同じ職種でキャリアを積んでいるのだから、「CAN」の仕事はどんどん増えている。
けれど、それはイコール「WILL」なのかな~

多少の「WILL」は含まれているけれど、自分の本当の「WILL(意思)」は違うところにあるのかもしれない。

いい年こいて、こんなこと言うのも、お子ちゃまくさいのだけど……
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by aru-henshusha | 2007-09-13 16:49 | 商品・企業・仕事
久しぶりの更新は、ちょっといい話のご紹介からさせてください。

岡山(週刊誌記者の日記)
まだ新米の新聞記者だったころ、盛岡でキノコ採りやソバ打ちに励んでいた支局長から、「小さくて面倒でも、人の嫌がる仕事を率先して引き受けろ。それが必ず自分のためになるから」と教わった。ファクスの紙を取り替えたり、ゴミを片付けたり、苦情の電話を受けたり、勧送迎会の幹事をやったりと、およそ記者としてはどーでもいいようなことばかり。そういう努力を誰かが気づいて褒めてくれるのか? どう自分のためになるのかは教わらなかったけど、とにかく支局長が好きだったので、東京に来てからも宗教のように引き続いて率先してきた。それが、昨年あたりから意味が分かってきたような気がする。ファクスの紙を取り替えたり、ゴミを拾ったりする他の人の姿が見えてくるんだ。編集部の外へ出てもそう。人のちょっとした優しさとか、気配りとか、目に見えない努力とかに、気がつける感覚を身につけてたんじゃないかと。
「人が嫌がるようななことを率先してやろう」なんて言葉は、自己啓発本の中にもよく出てきます。
でも、そういう話の「オチ」って、わりと次のようなパターンになることが多いんですよね。

人が嫌がるようなことを、自分が率先してやる
   ↓
その自分の頑張りを、誰かが見てくれている

(ひいては、自分が得をする)

でも、リンク先で(「週朝」の)藤田さんが言われているのは、

人が嫌がるようなことを、自分が率先してやる
   ↓
自分と同じことをしている、他人の頑張りに気づけるようになる

(得をするのは、むしろ他人)

ということだと思うんです。それが、僕にとっては、ちょっと新鮮で。


もちろん、「人の頑張りに気づける力」は、ビジネスマン、とくに人の上に立つ立場の人間にとっては大事なことでしょう。
藤田さんの上司は、そんな先のことまで考えて、この言葉を言ったのかもしれません。

だけど、その「真意」(と僕が勝手に決め付けていますが)に気づくのは、なかなか難しいことですよね。
僕だったら、まずは自分の頑張りを認めてくれ、と思うだろうなぁ……
by aru-henshusha | 2007-09-06 13:03 | 名言・言葉
一球入魂って(MORI LOG ACADEMY)
スポーツで、「この一球にすべてをかける」「一球入魂」みたいなことを言ったりする。たとえば、ピッチャだったら、その一球にすべてをかけ、魂を込めて投げてしまったら、その一球で終わりではないか。誰も打てない剛速球を投げたとしても、ワン・ストライクしか取れない。その一球でゲームが終わるのであれば、やる価値があるかもしれないが、しかしその場合、そこに至るまでは、入魂せずに投げてこなければならない。「いや、一球一球すべてに魂を込めるのだ」と言われるかもしれないが、そんなに沢山魂があるのか? けっこう魂を安売りしているな、と思うわけである。
この一作に自分の人生のすべてをかけたい、なんて真剣に考えたら、いつまで経っても作品は完成しない。もし完成したとしたら、それはその人間がそれ以上成長してないことの証明でもある。作品を完成させるごとに成長するわけだから、完成したとたんに、全力をかけたものではなくなるのが道理なのだ。
少し前に、自分の編集者生活で「最高」の本を作った、と思えたときがありました。

我ながら大げさですが、そこまでその本の編集には力を入れ、その時点ではまったく悔いのないものができました(しかも、売れ行き好調で順調に版を重ねています)

けれど、時間がたつと思うのですね。ああ、今度はあれがスタート地点なんだなぁと。


あのときの僕の力では、たしかにあれが「最高」だったんでしょう。
でも、その本をつくったからには、その本をさらに超えるものを作らなければいけないし、また作れるはずだとも思うのです。

あの本の中でできたことは、(もちろんテーマにもよりますが)違う本のなかでも再現できる。
あの本でやれなかったことは、これからの本づくりで試すことができる。

過去の最高の仕事」は、「未来の最高の仕事」を支える土台になります。
その土台をどんどん積み上げていけば、もっともっと高いところへいけるはず。


もちろん、編集という仕事の特性として、テーマが変われば本づくりも変わるし、出す本が毎回毎回、右肩上がりで売れていくというわけでもありません。

でも、「最高の仕事」をした経験は自分の中に貯金され、必要な時々に、引き落とすことができます。

最新刊こそ最高傑作でありたいのは、著者も編集者もきっと同じでしょう。

現実的に、それはかなり大変なことではありますが、そういう目標をもって働けるのも、悪い気分ではありません。
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by aru-henshusha | 2007-08-14 14:41 | 商品・企業・仕事