それくらい恋愛が下手だ。ばかりか、それにまつわる悩みをしょっちゅう抱えていたりする。
先日、『超訳 ニーチェの言葉』という本を読んでいて、
こんな一節にぶつかった。
愛するとは、自分とはまったく正反対に生きている者を、その状態のままに喜ぶことだ。自分とは逆の感性を持っている人をも、その感性のままに喜ぶことだ。
愛を使って二人のちがいを埋めたり、どちらかを引っ込めさせるのではなく、両者のちがいのままに喜ぶのが愛することなのだ。
言われてしまった、と思った。
おっしゃる通り、でもね、とも思った。
僕はなかなか、ニーチェみたいに愛することができない。
たとえば、好きな人ができたとする。
最初はいいところばかり、目に入る。
しかし、一緒にいる時間が増えたり、そのままつき合うようになると、
相手の嫌なところ(ニーチェ流に言えば、正反対な生き方や逆の感性)が目につく。
多くの場合、僕は相手の嫌なところを変えてほしいと思うし、
でも変わらなくて、喧嘩になることも多かった。
また、僕がつきあう人も、ある意味、僕に似ていた。
僕が相手を変えたいと思ったように、彼女は僕を変えたいと思い、
やっぱりうまくいかなくて、ダメになった。
恋愛ベタな僕は、街を歩くカップルを見るたび、不思議に思うことがある。
彼や彼女は、もともと自分に合った相手と付き合ったのか、
それともニーチェの言うような愛し方をしているのか、
それとも単に我慢をしているのか…
きっと、人それぞれなのだろう。
人と人にちがいがあるのは当たり前で、
そのちがいに目をつぶることで、世の中は成り立っている。
けれど、僕は好きな人といるとき、目をつぶれなくなる。
それは、そのちがいを(相手から)埋められるという甘えなんだろう。
相手に甘えることで、本当に甘えられる相手を失っていく。
書けば書くほど、僕は恋愛に向いていない。
ニーチェみたいに、愛せますか?
といま訊ねられたら、僕は口ごもるだろう。
ニーチェの愛の優しさの前に、深く恥じ入りながら。
ある編集者です。生きています。
東京で地震にあっただけで大げさな、と思われそうですが、
昨日オフィスで、最初の大きな地震に遭遇したとき、
正直、死ぬかと思いました。
ビルの構造(しかも、それは安全性を考えた構造なのでしょうが)のせいか、
縦揺れがひどく、エレベーターは止まり、あちこちでゲラや本が散乱し、
社内も社外も騒然としているし、そのあとも、たえまなく余震が続く。
間違いなく、僕が生きていた中で体験した、一番大きな地震。
その地震のさなか、そして「地震のあとで」、考えたことがいくつかあります。
一番最初に考えたことは、身も蓋もないですが、
「この会社で死にたくない」ということでした。
この会社で死ぬ、というか、多分、
この会社の一員のまま死ぬということにたいして、
僕は納得はできないな、と思いました。
それは、自分の真意に気づかされたというより、
前々からの思いの再確認と言ったほうが正しいのですが、
僕の死に場所はここでない、と改めて感じました。
同時に、これはまだまとまっていない考えのメモにしか過ぎませんが、
自分はもしかすると、「編集者として死にたくない」とも、
あの場で思っていたかもしれません。
編集という仕事は、相変わらず好きですし、
毎日バカみたいに働いています。
でも、その生活が本当に自分が望んでいることなのか、
建物が揺れるとともに、心もグラッときました。
その「震源地」については、しばらく考え続ける予感がします。
また、「地震のあとで」、色々な人の安否を確認しようと連絡を取りました。
そして、これも身も蓋もないことですが、
いま、自分が大切に思う人が誰なのか、ハッキリしました。
むろん、それはこちらのone-wayな思いの発露でしかないのですが、
割と優柔不断な僕にとっては、いい経験でした。
あと、普段はウザいくらいに感じてた親からのメール、
昨日だけは嬉しかった。本当、生きているだけで何より。
いい機会ですから、「地震のまえに」考えていたことも、
あわせて書いておきましょう。
このブログ自体は全然更新していないのですが、
いまはツイッターやらフェイスブックやら、
あるいは●●社の××としては、たまにブログを更新しています。
(僕の実名を知っている方は、よかったら検索してみてください)
ある時期から、匿名よりは実名で発信するほうがメリットが大きいと考え、
そうしてきました。
実際、「ある編集者」じゃない僕を知る人も業界ではけっこう増え、
仕事にもいい影響が出ています。
ですから、このブログは(生身の自分と最終的にひもづけるかは迷いますが)、
どこかで完全に更新をストップしようと思っていました。
けれど、「地震のあとで」、やはり考えが変わりました。
僕がいま、本当に書き残しておきたいことは、
ツイッターでもフェイスブックでも、ましてや社名を背負ったブログでもなく、
やはり「ここ」に投稿すべきじゃないかと思いました。
「ある編集者」の正体を知っている方からすれば、
それは中身がバレバレの「マスクマン」の悪あがきなのかもしれません。
でも、いまの僕には、その「マスク」が大事なんです。
ここに書いただけで、魔法のように色々なしがらみが消えてしまうわけでもないですし、
生身の僕と結び付けて「××、あんなこと書いてたよな」と噂されたりもあるでしょう。
だけど、僕はやっぱり「ある編集者」としてキーボードをたたくとき、
ちょっとだけ強く、ちょっとだけ素直になれる気がして。
「ある編集者」のマスクをつけて書きたいことが、
きっとこれからも、節目節目であるように思います。
そんなことを「地震のあとで」考えて
久しぶりにヒトリゴトを言ってみました。
「自分の家」なのに、ちょっとあけすぎたようですね。
ともかく、ただいま。
しばらくすると、またどこかに遊びに行ってしまうかもしれないけど。
でも、ただいま。
*色々書きましたが、このブログのケアにかけられる時間が一番少ないので、
コメント欄とかスルー&お眼汚し状態になることをお許しください
ブログの更新が滞ると、知り合いからこう言われることが多い。
また、先日は似たようなコメントが、このブログに書き込まれていた。
言われたほうとしては、少々フクザツだ。
このブログの更新を楽しみにしている人がいて嬉しい、という思い。
更新できないくらい忙しいということを察してほしい、という思い。
そもそもブログの更新は義務じゃないんだがなぁ、という思い。
それらが同じくらい入り混じっていて、
正直言えば、更新できない日が続けば続くほど、
最後の開き直りの思いが強くなる。
たしかに、昔の僕は「完璧」と言えるほど、このブログをケアしていたように思う。
1日最低でも1記事はアップしたし、コメントがあればすぐに返した。
スパムコメントやトラックバックはその都度消して、
常に自分の目が行き届いている状態だった。
けれど、身も蓋もないことを言えば、昔の僕はそれだけ暇だったということだ。
このブログを作ったのは、僕が今の会社に転職してきてすぐのころである。
当時の僕と今の僕では、仕事量はまったく違うし、求められているパフォーマンスも違う。
ましてや、目先の仕事以外にも時間をとられることは多々あるし、
ブログの優先順位は相対的に下がっている。
昔のようなマメさでこのブログを運営するというのは、
残念ながら今の状態では考えにくい。
それでも、ときおり思い出したように更新するのは、
たとえ「いい加減」でも、続けたほうがいいように思えるからだ。
昔みたいにジャンジャン更新できるわけではないけれど、
それでも楽しみにしてくれる人が少数でもいるのなら、続けよう。
何より、ここは、自分が本当に言いたいことを、
誰に気兼ねすることなく書ける場所なのだから、続けよう。
そう思って、このブログは残してあるし、その存在は常に頭の片隅においている。
もちろん、完璧を目指して、長く続けられるなら、それにこしたことはない。
(自分だって、できることならそうしたい)
しかし、完璧を求めるがあまり、結局それが負担になって、
だったらいっそやめてしまえ、となるのは望むところではない。
「いい加減」なことは重々自覚している。
でも、いい加減でも「続けて」いる。
続けるからこそ、「書ける」のだし「読める」のだ。
僕にとってはブログを完璧にケアすることよりも、そちらのほうが重要である。
ある編集者は、みなさんが思うより、いい加減な人間である。
けれど、それくらいのほうが、今の僕には、いい加減なのだ。
いま僕が仕事をしている著者は、ほとんどが企業の経営者で、自分で書くのは稀だ。
文章を書くのが苦手だとか、その時間がもったいないとかの理由で、
取材をもとにプロのライターが構成・執筆をして、一冊の本を作ることが多い。
(場合によっては、その仕事のすべて、あるいは一部を編集者が引き受けることもある)
そういう制作スタイルだから、当然、ライターの力量が本の出来に影響する。
この事実は、ビジネス書の著者の間ではだいぶ浸透しているようで、
冒頭のようなお願いをしてくるケースが目立ってきた。
もちろん、こちらとしても、腕が立つライターに、
取材や執筆をお願いしたいのは一緒である。
同じ一冊の本を作るなら、下手なライターより、
優秀なライターに書いてもらうほうがいいに決まっている。
けれど、仮にそういうライターと仕事をしたからといって、
その本が必ず売れるとは限らない。
なぜなら、本のコンテンツは、けっきょく著者以上のものにはならないからだ。
ライター(あるいは編集者)は、
まとまりに欠ける著者の話を、わかりやすく整理することはできる。
よくあるノウハウに独自のネーミングを与え、新しさを演出することもできる。
読みやすい文章を書くことで、読者のストレスを軽減することだってできるだろう。
しかし、それらはあくまで「調理」の方法に過ぎない。
本の「材料」を用意するのは、著者の役目だ。
ビジネス書であれば、著者がビジネスにかかわる分野で、
どんなことを行ない、どう考えてきたかが材料である。
それが何の変哲もない材料だとしたら、
調理法の工夫だけで、絶品の料理(本)を作るのは難しい。
「どう書くか」以前に「何を書くか」。
書ける(書いてもらう)だけの材料が、自分にあるかどうか。
それを吟味もしない内から、
「有名シェフ」の予約のことだけで頭がいっぱいな著者が多いようである。
こんなことを書いたのは、別に最近の著者に文句を言いたいからではない。
こういう「当たり前のこと」を忘れていた自分を戒める意味で、
いまパソコンに向かっている。
一部の人には言っていたことだけど、
この半年間、「書く」ことを学ぶ学校に通っていた。
(その目的については、長くなるので別の機会に譲る)
正直、通う前は、自分の「文章力」には自信を持っていた。
その学校の生徒には、僕のような現役の編集者やライターはほとんどいない。
出版社でも編集部以外の部署の人間、あるいは文章執筆とは無縁な会社に勤める人、
学生やフリーターなど、明らかに「書く」ことには不慣れな人が多いように見えた。
嫌な言い方だけど、自分の文章は学校の中では「うまい部類」に位置するはずだと思っていた。
けれど、授業が始まってから驚いた。
学校では、講師が決めたテーマをもとに文章を書いたり、取材をする課題が出る。
後日、生徒が提出した課題をもとに授業が進められるのだが、
自分よりもうまい文章を書く人はざらにいた。
いや、もっと言ってしまえば、僕が普段書いているような文章は、
たとえ趣味でも、書くことにある程度時間を費やしてきた人なら、
誰でも書けるのだということを思い知らされた。
僕が誇ってきた「調理」の腕前は、しょせんその程度だったのだ。
書くことへの自信を失うというより、
書くということを甘く見ていた自分に、嫌気が差した。
「どう書くか」を競っても、他の生徒と大差はない。
ならば、「何を書くか」、じっくり考えるしかない。
思えば、それは講師として来ていた業界の大先輩の方々が、
口を酸っぱくして言っていたことと同じである。
それを意識することで、卒業時には入学したときよりも、
少しはましな文章が書けるようになったと思う。
誤解してほしくないのだけど、
「どう書くか」ということも、もちろん大事だ。
しかし、それはあくまで、「何を書くか」のあとに、
あるいは同時に考える問題ではなかろうか。
自分が調理するにしても、人に調理させるにしても、
まずは最高の材料を探し集めることだ。
編集者というのは、著者をはじめ、色々な人から「やりたいこと」を託される仕事である。
しかし、そのすべてに、「やれます、やりましょう」と応えるのは、現実的には難しい。
お金の問題、技術の問題、時間の問題、業界のルールの問題、会社の問題、もちろん、本人の能力や権力の問題もあって、「これこれこういう理由でやれません」と断ることも増えてくる。
それは仕方がない部分もあるけれど、最近、「やれない理由」を言っている自分が、少し怖い。
何だか、日に日に自分が、「やれない理由」を探すのがうまくなっている気がするから。
今の自分では、今の会社では、やれないことは確かにある。
けれど、いつも最初に「やれない」ところから考えをスタートしていると、本当は「やれる」ことでも「やれない」と思ってしまうクセがつく。
それは「会社人」の自分としても困るし、会社を離れた自分としても、やはり困る。
最近、僕には「やりたい」ことができた。
いや、それは本当は昔から「やりたい」ことだったのだけど、しばらくの間、その思いを自分で押し殺してきた。
自分で「やれない理由」を色々見つけてきては、「ほら、だから、やれないだろ」と言って、あきらめていた。
でも、結局それは、自分の本意ではなかった。
いつものことだけど、僕は自分の本心に気づくのが遅いんだ。
「やれない理由」なんて、探そうと思えば、いくらでも見つかる。
その一方で「やれる理由」や「やるためにすべきこと」も、一生懸命探せば意外と見つかったりもする。
本当にやりたいことならば、時間がかかっても、やれる可能性、やれる手段、を探したほうがいい。
「やれない」と思って「やらない」のはラクだけど、「やりたい」ことであればあるほど、いつかきっと後悔するから。
後悔したときにはもう、本当にやれなくなっている場合も多いから。
新年になって、何か新年らしいことを書こうと思って、いろいろ悩んで、そうするうちにどんどん忙しくなって、今日やっと、このことを書こうと思った。
今年は僕にとって、本当に「やりたい」ことを、どうにかして「やる」ために、土台を固める一年にしたい。
そう言って、彼は僕に、世界的に有名な自己啓発の名著を差し出した。
以前、ある若手経営者のインタビューをしていたときのことである。
なるほど、話を聞く限り、彼がその本から強い影響を受けたことは疑いようがない。
その本を読んでポジティブ・シンキングを徹底的に実践するようになった彼は、
無謀・不可能とも思える社内改革を断行し、
また、業界の常識を打ち破るような経営施策を次々と行って、
以前とは比べものにならないくらい、会社を大きくした。
仕事でどんなに厳しい局面を迎えても、前向きに考え、
打開策を打ち出せるようになったのは、たしかにその本のおかげなのだろう。
けれど、冒頭の彼の言葉に、僕はどうしても引っかかる。
はたして、本には、人生を変える力はあるだろうか?
本、しかも自己啓発ジャンルの書籍を作ることも少なくない自分が言うのも何だけど、
僕は、本には人生を変える力などないと思う。
あるとしたら、それは、人が「変わりたい」と思うきっかけを作ることぐらいではなかろうか?
僕は今まで何十冊も、人が「変わる」ための本を作ってきた。
また、それらの本を作るために、類似した数百冊の本にも目を通してきた。
しかし、本を作るたびに、自分が大きく変化したという実感はない。
そう、本は、読むだけでは変わらない。
ある本を読んだことをきっかけに、自分を変えたい・変わりたいと思って、そのための行動をする。
「行動」なくして、人に「変化」は起こらない。
もちろん、本を読むということも、行動の第一歩ではある。
何も読まないよりは、それは思った以上に大きな一歩かもしれない。
だけど、本を読むことは、あくまできっかけであって、そこで灯った「変化の火」はとてもか細く、ちょっとしたことで消えてしまいがちである。
(そうやって、何度も変化の火を消す人が、僕らの大事なお客様ではあるのだけど)
だから、変わりたいと思ったときに、すぐ動くことが大事なのだ。
冒頭で例に出した経営者は、まさしく「行動」の人だった。
彼は本を読み、自分の考え方を変え、さらに別の本やセミナーで学び、そこで得たことをすぐに実行した。
彼を本当に変えたのは、本ではなく、彼自身なのだ、と僕は思う。
年をとると、人は変わりにくくなる。
いや、一般論に逃げるのではなく、これは僕の話だ。
僕も、年々、変化を厭うことが増えてきた。
でも、そんな自分を苦々しく思う自分が、もう一人いる。
変わりたくない自分を変えるために、できること。
それを探して、少しずつ実行するしかない。
僕を変えるのは本ではない。
僕自身である。
何というか、最近の岩波新書には「当たり」が多いのだ。
今から紹介する本も、その当たりの一冊である。
『疑似科学入門』
*アマゾンに画像がないんで書名だけ。ていうか、アマゾン画像は必須でしょうが…
この本の内容については、疑う者を信じよ - 書評 - 疑似科学入門あたりでおさえてもらうとして、ここでは個人的に「なるほど」と思った言葉を引用しておく。
科学とは、知れば知るほどわからないことが増えてくるものである。自分は何も知らなかったと思い知らされるのが科学者の日常と言える。つまり、科学者は研究を極めれば極めるほど謙虚になる。自分の無知さを知って謙虚にならざるを得ないのだ。(同書190ページ)この言葉、科学者だけにあてはまるものではないのではないか、と僕は思う。
恥を忍んでいうが、去年の今頃、僕は有頂天だった。
なぜかというと、作る本作る本がそれなりに売れて、会社では表彰されるし、ボーナスは予想以上に上がるし、仕事に関しては、まったく怖いものなしだったのだ。
嫌味な言い方をすれば、僕は「わかった」気になっていた。
売れる本の作り方、ひいては出版というものを「わかった」ように思っていた。
しかし、そういう状態は長くは続かない。
そのあと、売れる本も作ったけど、売れない本も何冊も作った。
あの「わかった」感覚は何だったんだろう、と我ながら不思議に思うぐらい、僕は「わからない」人に戻っていった。
そういう時期を経て、今の僕は、だいぶ謙虚になったと思う。
自分がわかったと思った感覚のほとんどが偽物であり、また、ある程度「わかった」状態の先には、もっともっと「わからない」ことが転がっていると気づいたから。
ベタなたとえでいえば、「初心者の山登り」みたいなものだ。
まるで、自分が汗水たらしてたどりついた頂上から、もっと高い山の頂が見えた感じ。
だから僕は、これからも新たな山の頂を目指して、謙虚に登り続けるだろう。
それは正直しんどいことだけど、同時にワクワクすることでもある。
今より高いところに登ったとき、いったい何が見えるのか、僕は今から楽しみにしている。
そりゃあ、もともとイケメンとは対極の顔立ちなのだけど、
自分自身、どうしようもないブオトコだと気づかされた瞬間があるのだ。
きっかけは、写真である。
その写真は、高校の体育祭で、本気で走っている僕の姿をとらえた一枚だった。
いや、ひどいのなんのって。写真の中の僕は、とんでもない形相をして走っている。
よくテレビのバラエティ番組の罰ゲームで見る、頭からパンストをかぶされて、
それをそのまま上に引っ張られたタレントみたいな、本当にひどい顔。
あまりのブサイクさに、我ながら、声を上げて笑ってしまった。
他の人のことは知らないけれど、本気で走っている僕は、
いつも、こんなふうにかっこ悪いのだろう。
顔だけじゃなくて、何もかもがイケてない。
そんな僕が、もしも走っているときにコケたら、きっと、これほどかっこ悪いことはない。
じつは今日、コケたんだ。
といっても、これはたとえで、本当に道路やトラックで転んだわけじゃない。
ここ数か月、本気で走ってきた「道」で、僕はコケた。
自分でも、本当にかっこ悪くて、ひどいコケ方をしたと思う。
けれど、きっと、コケなきゃ僕は止まれなかった。
その「道」には、もともとゴールが用意されてなくて。
でも僕は、それを知らずに走り出してしまっていて。
いつもみたいに、ブサイクで、不恰好なランナーは、
派手にコケて、痛みを覚えて、それでようやく止まることができた。
考えてみたら、そんなことは、今まで何回もあった。
本気で走って、本気なだけにかっこ悪くて、
それでも構わず駆け続けて、思いだけが先走って。
何度も何度も、見事にコケた。
本気で走らなければ、途中で止まったり、引き返したりもできるのだろう。
いや、そもそも普通の人は、走るべきか否かを、もっと冷静に吟味しているのかもしれない。
そういう生き方に、学ばなければいけない点があるのはわかる。
だけど、僕はきっと、次も本気で走り出してしまう気がする。
人生の中で数回だけ、本気で本気で走り続けて、そのままゴールしたときがあって、
その喜びを、僕は今でも昨日の出来事のように覚えている。
あのときの僕は、周りから見れば相変わらずカッコ悪かっただろうけれど、
多分、世界中で一番幸せな男だった。
本気で走って、本気でコケたら、かっこ悪いし、痛くもある。
けれど、その先にある喜びは、そんなことがどうでもよくなるほど大きい。
それを知っているから、僕は本気で走ることが好きなんだ。
次のレースは、もしかしたら、もう始まってるのかもしれない。
以下に発行元のライ・パブリッシングのリリースを転載しますので、ご興味のある方は詳細を確認してください。
現役編集者が出版界に物申した話題作、
『出版人の品格』本日発売!
このたび、株式会社ライ・パブリッシング(東京都新宿区)は、現役編集者ブロガー「ある編集者」の初の著書、『出版人の品格』を発売しました。
ここ数年、「品格」と名づけられた本が数多く発売される出版業界。
しかし、そもそも出版業界、そして、そこで働く人々にどれだけの「品格」があるのでしょう?
本書は、その問題意識のもと、ブログ「ある編集者の気になるノート」(http://aruhenshu.exblog.jp/)の管理人「ある編集者」が、出版界の偽装と欺瞞を暴き、「品格」を問いただす一冊。
某美人著者の写真と実物はどれだけ差があるのか、新聞広告掲載の部数は「3倍」が当たり前、といった現役編集者しか知りえない出版界のタブーが満載です。
なお本書は、200万ヒットを誇る有名編集者ブロガー、ある編集者の初の著作となります。
本日4月1日より大手書店で順次発売、尼損.com等のネット書店でも、すでに予約を受け付けております。
【本書の構成】
第1章 女性著者のカバー写真と現物は、なぜあれほど違うのか?
第2章 新聞広告の「○万部突破!」は、すべてウソである
第3章 ポジティブシンキング本の著者に限って、じつは根暗なワケ
第4章 中谷彰宏センセイは、いったい何人いるのだろう?
第5章 ケータイ小説の「リアル」って、どこまで現実?
第6章 ベストセラーの解説本が、一向にベストセラーにならない矛盾
第7章 「品格」本を次々と出す、出版人の品格のなさ
付録 ある編集者VS滝川クリスタル 斜め45度対談!
【著者略歴】
ある編集者:昭和生まれ、東京都出身。ネコと滝川クリステルをこよなく愛す、ビジネス書の現役編集者。ブログ「ある編集者の気になるノート」は開設3年で200万ヒットを記録。知っている人はよく知っているし、知らない人はまったく知らない、微妙な知名度を誇る。
【体裁】
■出版社 株式会社ライ・パブリッシング
■定 価 1575円 (本体価格1500円+税)
■発刊日 2008年4月1日
■版 型 46判 224ページ
というわけで、僕の初の著書『出版人の品格』をよろしくお願いします。
なお、最期に一つ付け加えますが、これはエイプリルフール企画です……
こう書くと、いつもの冴えない(?)恋愛話を期待する人がいるかもしれないけど、そうではなくて。
僕が振られたのは、ある著者である。
このブログをよく読んでくれる人はご存知だと思うけど、僕の本業は「ビジネス書」の編集者だ。
ビジネスマン(&ウーマン)対象の本を作るのが仕事だから、折を見ては、コンサルタントやら企業の社長、各種士業の先生に本を書いてくれと頼みに行く。
けれど、僕が最近振られた著者は、そういった職業の人ではなく、まったく異分野の人である。
いままでビジネス書など書かなかった人なのだけど、彼の専門分野の話はビジネスにも生かせるところが多い、とふんで会いに行ったのだ。
彼が指定した喫茶店で、いくらかの世間話と専門分野の話を聞いた。
その話はめっぽう面白くて、またビジネス書としても全然いけそうで、僕は最後に、今日聞いたような話を、ぜひビジネス書として作らせてほしいと頭を下げた。
そして、あっさり振られたわけだ。
彼は言った。
「僕の専門分野の話を専門書として出すのなら、僕は喜んで受けます。
けれど、それをビジネスとか、自己啓発といった分野の本として出したいのなら、僕は断ります。
申し訳ないけれど、それは、僕がしたいことではない。他に適任の人がいるはずです」
僕はこの言葉を聞いて、編集者としては失格かもしれないけれど、素直に引き下がった。
残念だったけど、同時に、心からその言葉に納得してしまったから。
ここのところ、僕はよく、「したいこと」と「しないこと」を考える。
昔は「したいこと」だけ考えていたけど、歳をとったいま、むしろ「しないこと」についてよく考える。
人間、気がつくと、思った以上に、しなくてもいいことをやっている。
そのすべてが無駄だとは言わないけど、しなくてもいいことに時間を費やしすぎて、「したいこと」をやる時間がなくなっては本末転倒である。
だから僕は、何をしたいか以上に、何をしないかを考えるようになった。
僕が会いに行った彼も、「したいこと」と「しないこと」がハッキリ決まっていた。
したいことを悔いのないようにやり切るためには、しなくてもいいことは絶対しない。
その決意を僕は潔いと思ったし、「彼のしたいこと」をさえぎってまで「僕のしたいこと」を押し付けるのは、僕が「心からしたいこと」ではないと感じた。
本を作ることは叶わなかったけれど、一冊の本を一緒に作り上げる以上に、彼からは大事なことを学んだように思う。